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人が人として生きられる資本主義とサステナビリティーー ブルネロ・クチネリの名誉博士号授与式で考える。

人材の多様化など社会貢献につながるテーマは環境問題と並んで投資家の関心が高い。日本企業は欧米に比べて出遅れており、経営陣の意識を変えて企業価値の向上を狙う。

この数年、ESGという言葉が飛び交います。環境や社会への注意が向かないビジネスのあり方が問題視され、上の記事にあるような動きが出てきています。そこで、このテーマに率先して取り組んできている企業創業者の話をしましょう。

ローマ大学が名誉博士号をブルネロ・クチネリに授与したわけ


2022年10月13日、ローマ大学で名誉博士号の授与式が行われました。博士号を受け取たのはブルネロ・クチネリ氏です。イタリア中部のウンブリア州にある小さな村・ソロメオに本社をおく自らの名前を冠した高級ファッション企業の創業者。1978年設立、昨年の売り上げがおよそ900億円の上場企業です。国内およそ1000人、海外およそ1000人の従業員がいます。

この8年間、何度も彼のことや彼の企業について書いてきたぼくも式典に出かけてきました。今春上梓した『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』でも、クチネリ氏の思想や実践を紹介し、ブルネロ・クチネリは新ラグジュアリーの旗手であると位置づけたので、「彼への最新評価の現在地」を確認しておきたいと思ったからです。

ローマ大学学長、経済学部長の話に続いた経済学部のアルベルト・パストーレ教授の説明によれば、今回の名誉博士号授与の理由は以下です。

ー クチネリ氏自身の個人的ストーリーと若い人たちへのインスピレーション。
ー クチネリ氏の「人間の尊厳を重んじた資本主義」の哲学。
ー 企業として、世界での「メイド・イン・イタリー」の傑出した旗手。
ー パーパスとサステナビリティのDNAに性格づけられた企業の成功。

その後、およそ30分、クチネリ氏のレクチャーがありました。

クチネリ氏のレクチャー

都市は農村より上にあるのか?勤め人は農民より上にあるのか?


クチネリ氏は農民の息子として生まれます。貧しいながらも、平和で充実感ある家庭で幸せを感じる日々でした。ときは高度経済成長期の1950-1960年代です。

農村より都市、農民より勤め人が憧れの対象になる時代です。彼の父親も農民であることをやめ、近くにある都市・ペルージャ市近郊のセメント工場の工員になります。少年ブルネロが中学生の頃です。

そうすると都市の学校の同級生は、彼の服装や言葉遣いが「田舎臭い」と馬鹿にします。一方、父親は工員として働くなか、上司より人間性を軽んじる扱いをうけ、帰宅後の表情も暗い。農村では電気もテレビもなかったのに、街にでてきてそのような文明の利器が家のなかにある。それでもちっとも幸せではなかった。

こうした状況に直面し、青年ブルネロは「将来、自分が大人になったら、こうした辛い思いをしない、人間が人間として扱われるようなビジネスをしたい」との願いをもつようになります。これが20代半ばで起業するに至る発火点でした。

カシミアは長く、世代も超えて着られる素材。しかも、女性用カシミアセーターにカラフルな色を採用する戦略をとることを考えたのです。それが大ヒットして経営基盤を作りました。

クチネリ氏はビジネスが軌道にのってきたからと都会に本社を移すのではなく、逆に人口5百人の小さな村・ソロメオに本社をおきます。丘の上にある中世からの街は、1980年代、朽ち果てていました。

彼はビジネスで得たお金で、この村をじょじょに再生していくのです。そして劇場や職人学校も作っていき、田舎の街を魅力的な存在に変えていきます。

現在のソロメオ(https://www.comune.corciano.pg.it/territorio/solomeo)

これらが名誉博士号の授与理由の説明になります。つまり、都市や勤め人が「上のもの」とされる価値観を覆し、雑誌『ニューヨーカー』など世界中のさまざまなメディアに紹介され、賞賛されるようになったわけです。

彼自身の発案と実行力、そしてビジネスの成果には驚くべきものがありますが、今の彼があるのは、それらだけによるものではないはずです。

これらの時代背景をもう少しみてみると・・・

クチネリ氏もそれぞれの時代の影響を受けて生きています。農民の子が工員の子になっただけではありません。1980年代、イタリアの農村地帯を変える動きがありました。先月、ここでも紹介した木村純子・陣内秀信編著『イタリアのテリトーリオ戦略 蘇る都市と農村の交流』を参照します。

1960-70代、イタリアにおける都市計画の大きなテーマは、歴史的地区の保存と再生でした。単に外見を整えるだけでなく、またジェントリフィケーションに陥りお金が流通することがメインになることも避け、普通の人たちや職人が日々の営みと暮らしが継承できることを目標にしたものです。

この結果、1980年代には中小都市に賑わいが戻り、小さな規模の企業が活発化し、並行して農村でも工業化された大規模農場ではなく、スモールサイズの農場と農家が力をつけていきます。量から質への転換です。同時に、更に小さなサイズの街の歴史的地区にも再生の動きが波及していきます。

1980年代、もうひとつの動きとして田園風景の再評価があります。元来、イタリアでは田園と都市が密接な関係にあったのが、近代工業化のなかで分離してしまっていたとのいきさつがあります。少年ブルネロが都市郊外の学校に転校して同級生に馬鹿にされたのは、まさしく、この構図のなかにあったのです。

Brunello Cucinelli 2023SS のミラノでのプレゼン

それが1980年代、反省期に入り、新しいいくつかの動きが顕在化します。

1980年代以降にある動きーー「テリトーリオ」「パエサッジョ」

1980年代に多用されはじめる言葉があります。「テリトーリオ」と「パエサッジョ」です。それぞれの言葉について、上記の本から引用します。

テリトーリオは、土地や土壌、景観、歴史、文化、伝統、地域共同体、等々のさまざまな側面を併せ持つ一体のものと定義される(スターニャ。本章第5章)。さらに説明を加えると、土地の持つ自然条件、あるいは大地の特質を活かしながら、そこを舞台に人間の多様な営みが展開してきた。
『イタリアのテリトーリオ戦略』34p

クチネリ氏は古代ギリシャの賢人のフレーズ「すべては土地から生まれる」を好んで使いますが、彼のソロメオの土地に対する姿勢はテリトーリオの概念に依っているのが、上述の説明からもよく分かります。社会経済的、文化的なアイデンティティを共有しています。英語のテリトリーがテクニカルな領域に留まっているのに対して、テリトーリオは複合的な意味合いをもちます。

「イタリア人がイタリア語でテリトーリオというのだから、当然でしょう!」ということではなく、彼がソロメオ村の再生に強くコミットしはじめた時、「田園の発見」という文脈でテリトーリオがより意識されはじめたタイミングであると強調したいのです。

パエサッジョは風景を指しますが、その対象にイタリアの特徴があります。

テリトーリオと並んで、重要な言葉としてよく使われるようになったのがパエサッジョ(風景、景観)である。興味深いのは、イタリアではもっぱらこの用語は、都市にではなく、田園や農業の景観に積極的に使われるという点である。歴史的、文化的な価値を持った都市の評価はすでに確立していたこともその理由だったと思われる。
『イタリアのテリトーリオ戦略』35p

1985年、ガラッソ法という景観法ができましたが、山岳部や海外沿いの地域を含めた田園地域の風景全体を対象にしているのです。同じころ、農家の民宿化をおし進めるアグリツーリズモ法が設定され、また新しい食の生態系を提案したスローフード運動がはじまりました。

即ち、30代になったクチネリ氏が見ていた農村の風景には、新しい風が吹いていたわけです。「風景を美しいように努めるのは、自分の責任であると感じる」事業は現在の69歳になるまで40年近くにわたって継続し、次世代に継いでいこうとしています。その契機は、1980年代にあった社会動向と想像できます。

言うまでもなく、彼自身が信じていた農村の力と魅力を少年時代から身体で経験していたからこそ、新しい風を敏感に感じ取ったのではないかと思います。

クチネリ氏が農村に全てがあると信じ続けた感性、田園風景にある時の流れを読む力。これらの2つの要素は、彼が「人の尊厳を重視する資本主義」を推進するに大いに貢献したはずです。

「誰でも希望がもてる」と若い人たちに語る

クチネリ氏は前述したように、人が人として生きていけるような社会の実現をビジネス動機としているため、「人の尊厳を重視する資本主義」の実践者として評価をうけています。したがって、完全にバズワード化しているサステナビリティという言葉へも慎重です。

彼はサステナビリティに対しても「人間らしいサステナビリティ」との表現を使い、単に環境文脈だけでなく、経済、文化、精神の文脈においてもサステナビリティでないといけないと語ります。

サステナビリティを多角的にかみ砕いて語っている。ここにもテリトーリオのコンセプトと相通じるものを感じます。

ローマ大学の学生たちのリクエストで写真を撮られるクチネリ氏

そして今回、特に彼の話を聞いていて印象が深かったのは、若い人たちへの熱い思いです。おどろおどろしい恐怖に耳を傾ける暇があれば、もっと希望がもてる話を聞け、と鼓舞するのです。

実は、2015年、日本の東北の若い人たちをソロメオに招いて研修を行ったとき、あるいはその翌年、仙台での若い人たちに向かっての講演、何度か若手へのメッセージをリアルで聞いてきました。

しかし、2020年から世界を覆う数々の暗いエピソードに不安になる人たちを前に「君たちは希望をもてるのだ」と静かに語り掛ける姿には違った迫力があり、ぼくもハッと気づくことがありました。

貧しいながらも心穏やかな農民の生活で味わった幸福感だけでなく、自然を相手にして人の手ではどうにもならないことが多々ある農業が従う摂理のなかに生きてきたからこそ、より良いタイミングが到来することに希望がもてるのではないかと考えました。

大きな組織のオフィスや大量生産の工場で働いているだけでは得にくい心持ではないか、と思います。講堂での式典のレクチャーが終わったあと学生たちと話すと、確かに彼らは目を輝かせて「積極的に生きようと思った」と口々に話します。

今、世界のあらゆるところで、あらゆる側面から農業の重要性が見直されていますが、若い人たちの視野のなかに農業という営みがあるかないかは、想像以上に人生観に大きい影響を及ぼすのではないかと思いました。

冒頭のローマ大学講堂の写真©Brunello Cucinelli 

*イタリアにおける田園風景とのぼく自身のつきあいについて書いたnoteがあります。参考までに。





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