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「健康のために歩く」呪縛から解放してみたら?ー「歩きたくなる街」を批判的に再考する。

人は健康のために生きるのではなく、心地よく生きるために健康でありたいと願うはずです。だが、往々にして健康自体が目的化したような見方や議論を見ます。以下の記事にある「歩きたくなる街」の記事も、注意して読むのが良いでしょう。

街中の歩行者を増加させることを狙う「ウォーカブル推進都市」制度は国土交通省が19年7月に始めた。街路や公園、広場の利活用といった計画・構想を認定し、事業費の半額を国費で補助する。車中心からひと中心の空間に「まち」を転換させることで、域内消費や健康寿命の延伸など地域課題の解決につなげる。

国土交通省には、この課題のサイトがあります。

試みそのものは賛成です。推進してしかるべきでしょう。しかし、「ひと中心の空間」という聞こえの良い表現を使っていますが、人を消費の当事者、公の医療負担費の増減を左右する存在としての人の健康、これらが前面に出過ぎている印象があります。「歩く」という人間の行為を、もしかしたらツールのように見ているのでは?と感じます。

「パッセジャータ」と「散歩」の間にある乖離

先日、「気候変動時代に都市と農村のつきあい方を考えるー『イタリアのテリトーリオ戦略』を読む。」を書きました。そのなかで「散歩」について以下触れました。

最後、陣内さん、須田文明さんとの鼎談での木村純子さんの発言です。

イタリア語の「パッセジャータ」を日本語の「散歩」と翻訳しても、パッセジャータが描くブルブラしながら道で出逢った人と軽く言葉を交わすとのシーンがなかなか思い浮かべられない。散歩は今や健康のためのウォーキングに近いものになっていると指摘しています。歩く行為が単機能になっているということですね。これは15分都市を議論する際に深めないといけない点だと思います。

「歩く」には、目的地に移動する、健康のために歩くだけでなく、人やモノとの偶然の出会いを求める、人と対話する、1人で思考を深める等、さまざまな動機や意味合いがあります。それらをすべて含んだものとしてイタリア語のパッセジャータがありますが、日本語に散歩と訳したとき、健康目的のウォーキングと同義になりつつあることを、編者の木村純子さんは指摘しています。

国土交通省は英語のウォーカブルという歩きやすさを焦点においていて、狙いが違うのだとの弁明も聞こえてきそうです。ただ、このプロジェクトが描いている具体的な風景は、パッセジャータが提示するイメージが近いと思われます。散歩や散策という日本語が統合的なイメージを喪失しており、それに代わる適切な言葉が普及していない。この現象自体が問題です。

散策の喪失を夜の街でみる

先月、日本に滞在しているとき、いくつかの地方都市に旅しました。そこで残念に思ったのは、夜といってもまだ日が完全に暮れていない時刻帯であっても、街の人通りがあまりに少ないことです。

夕食の前後にちょっと家族や友人とだらだらと歩くとの習慣がない。昼間は目的をもっての移動が主体でしょうから、道で誰かと出逢っても用事をすますのを優先する。そして早朝か夕方以降の時間帯を「健康のため」だけに費やし、ウォーキングで歩く前ばかり注視していたのでは、他人とコミュニケーションが成立する機会がほとんどありません。

オフの時間帯であれば、近隣の人や通常仕事では会いにくい人とも偶然出会い、そこで雑談を楽しむことができます。こういった風景をイタリアの地方の小さな街でもよく見ます。都会でも、週末、昼食を親戚や友人たちと一緒にし、食後にみな自宅周辺を歩く光景があります。およそ話すために歩くのです(1人ならケータイで話しながら歩く姿も多い)。

これがコミュニケーションの鍵になっているのです。

ただ、ぼくは「だから無駄な散策の時間をつくりましょう!」とダイレクトに言いたいのではありません。

ひとつの行為や言葉のもつイメージを極端に絞り込まない

まずもって、あらゆる行為や言葉が目的あるものに傾いている思考パターンを、ネガティブにも受け取られてきた「雑駁」とでも言うようなイメージに引き戻すのが望ましいと強調したいです。

食べるといえば栄養摂取のための行為であると同時に、それ以上に美味しいものを楽しむとの側面を忘れてはいけません。

スティーブ・ジョブズが自分の頭をクリエイティブな仕事のために使いたいから、イッセイミヤケのシャツを大量に買いそろえたとのエピソードを手放しで賞賛しないことです。そのような選択があるのは否定しませんが、それがベストな生き方でありファッションとはそういうものであるとの意見に加担し過ぎない感覚が欲しいです。

冒頭の記事の引用した文章でいえば、「車中心からひと中心の空間に「まち」を転換させることで、域内消費や健康寿命の延伸など地域課題の解決につなげる」とあります。しかし、我々は地域課題の解決のために歩くのではなく、単に何も考えたくないから、逆に何かを考えるために、そしてその行為が気持ちよいから歩くのです

無駄な時間や行為を設計し過ぎるのも不自然

このように書いてくると、「余白の時間が大切なんですよね。そうした時間を意識的にどうつくるかがテーマですよね」と話す人が陰からばっとでてきそうです。米国の心理学者による自己啓発本にありそうな意見を拾ってくるのか、空白も計画的に設計する重要さを説く。

「いや、そう説く時点で、あなたの思考全体を見直すべきなんだ」とぼくは、そういう人に言いたいです。ある行為や言葉を分析的に細切れにし、どんどん全体像から遠のく自分に気が付かないといけない、と。分析的なのは一見賢くみえることもあるが、そうとうにつまらない人間になっていることを同時に自覚した方が良いということですね。

「解像度高く言語化されている」との評価が流通した結果がこれです。もちろん、必要な場面では必要です。しかしながら、本来、統合されたイメージに抜きがたくあった曖昧なコンテクストや意味合いが消去されてしまっているとしたら、この部分の回復を図るのが適切です。

「雑駁な」言葉への回帰

我々は「街を歩かされている」などとは思いたくないはずです。「いや、あなたの健康を配慮し、そのような街をつくっています」と言われて喜ぶのではなく、「健康でありたいかどうかは自分で決める」とぼくは言いたいです。

行政や誰かシステムをコントロールする人に「歩いて健康になり、しっかりと消費してください。そして、社会の医療負担を軽くするように協力してください」と言われているような気になる街が楽しいはずがない。

そういう街の路上で賑やかな会話が繰り広げられるだろうか?

繰り返しますが、歩きやすい空間はどんどん増えて欲しいです。もちろん、歩きたくなる空間も、です。ただ、それをデザインする人たちの頭のなかにある「人の行動パターンを変えてやる」的な意識を一掃して欲しいのです。そして、その根本には「雑駁な」言葉への回帰が求められているとの認識が望まれます。

結論。エンジニアリングではなく、クラフトの世界の思考でまちづくりを考えるべきです

(上記のエンジニアリングとクラフトの2つの対比は、「気候変動時代に都市と農村のつきあい方を考えるー『イタリアのテリトーリオ戦略』を読む。」を読んだ、静岡大学で経営学を教える本條晴一郎さんが、料理とワインの相性としてのペアリング(英語)とアッビナメント(伊語)の対比を、エンジニアリングとクラフトに照応するとのヒントを提示してくれたのがきっかけです)。

写真はKen Anzai


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