気候変動時代に都市と農村のつきあい方を考えるー『イタリアのテリトーリオ戦略』を読む。
昨年9月、オーストリア人の友人の写真家が北極海の各国軍事基地を撮影した写真の数々に接した(下記の記事)あたりから、気候変動についての視点を複数もつべく、気をつけるようにしています。
ですから、フランス・ブルゴーニュ地方のワイナリーが気候変動で対策に苦労しており、それに加え、これまでワイン生産地ではなかった英国南部やベルギーなどでもワインが生産できるようになり競合が増えていると、ワイン農家のコメントを伝えている以下の記事も、慎重に読もうと思います。
記事中にある「健全な競争はワイン市場にとって悪いことではないが、競合が増えることになるだろう」との言葉をどうとるか?と考えます。ブルゴーニュでこれからワイン生産がさらに困難になることも最悪の事態として想定すると、「競合が増える」との表現は楽観的過ぎるのではないか、と。
これまでの自然環境や歴史を踏まえた先に自分たちの将来の農業があるわけでもない。これが大きな前提になるはずです。
一方で、この30-40年ほど、自らが生きる農村や農業を見直そうとの動きが、さまざまな国でおきています。一つが1986年、イタリア北西部のピエモンテ州ではじまったスローフード運動です。昨年、ぼく自身がイタリアでおよそ30年間にわたり経験してきた地方の風景の変化についてメモしましたが(「イタリアの地方の風景と自分の経験を照らし合わせてみる。」)、この動向にはある程度の実感がもてます。
そして都市を顧みると、機能にわけたゾーニングとの発想から転換する15分都市の動きが強まっています。先月に書いた「街を単機能で見ない -15分都市で考えるべきこと(日本滞在記4)」は、このテーマに触れています。徒歩、自転車、公共交通機関による15分程度の移動で、生活と仕事のすべてが可能なような都市のコンセプトです。脱炭素と生活の質の向上が図られます。
この考え方も使いながら、社会や生活のあり方を変える運動をしているソーシャルイノベーションの第一人者、『日々の政治』の著者、エツィオ・マンズィーニは「基本、都市とその周辺で活用されることが多いが、田舎の生活がまったく別物の考え方の上にあるわけではない。実際、ぼくも住んでいるトスカーナの小さな村で実践中だ」との趣旨を、ぼくに話してくれたことがあります。
以上のいくつかのテーマが頭のなかでうろうろしているところで、経営学者の木村純子さんと都市史研究者の陣内秀信さんが編者となっている『イタリアのテリトーリオ戦略 蘇る都市と農村の交流』を読みました。上述のテーマへのヒントがあったので、ここにランダムに書いておきます。
「テリトーリオ」は「テリトリー」や「テロワール」とどう違うか?
この三つの言葉は、伊語、英語、仏語の「地域」を指していますが、それぞれに違った意味合いがあります。その差異を理解するにあたり、料理とワインの相性を表す「アッビナメント」(伊語)、「マリアージュ」(仏語)、「ペアリング」(英語)の差異を知ると、この話題に入りやすいかもしれません。『イタリアのテリトーリオ戦略』第8章にその説明があります。
この分野の人でもない限り、マリアージュとペアリングの違いなど気がつかないでしょう。いわんや、アッビナメントなど聞いたことがないと思います。ちょうど、テロワールほどにはテリトーリオという言葉が国際的に浸透していないことの裏書きでもあります。
最近よく耳にするペアリングは、ペアリング・ロジック(下記引用)により「ワインと料理の歴史的縦軸よりも、ソムリエの技術、経験、思考による嗅覚的、味覚的調和が重視されよう」と田上さんは書いています。
ペアリングに対して、アッビナメントはローカルの料理にはローカルのワインが合うとの考え方をします。ざっくりとした例を挙げるなら、「肉料理ならフランスなどの葡萄品種を使った重い赤ワイン」とのしばりに沿うのではなく、料理の素材や工夫が生まれる、地元の香りある白ワインがいいじゃない、との選び方をするわけです。
個々の要素をペアリングのようには分析的に捉えないと言えば良いでしょうか。マリアージュも地域性を重んじますが、アッビナメントはその点がさらに強調されています。イタリアではこうも地域に重きをおく背景は何か?これがテリトーリオの理解に繋がります。
テリトーリオとは「土地や土壌、景観、歴史、文化、伝統、地域共同体等のさまざまな面が一体化されたもの」(バルバラ・スタニーシャ 本書第5章)であり、テリトリーが行政区分などテクニカルな側面が強く、テロワールはもともとワイン文化と結びついた土壌というウエイトが大きいのです。
イタリアでは自然と文化の連携が強い特徴は、ぼくも『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』のなかで、以下のように紹介しています。
ここからも、アッビナメントの基準が「味覚的調和より郷土的調和」(田上)による理由が想像できると思います。そして、冒頭の記事に紹介したように、郷土の自然条件が思いのほか速く変わりつつある現在、自分たちのつくる農作物や加工品が今までの文化アイデンティティとどう乖離するのか?を注視する必要がでてきていることになります。
新しい味(または種類の)農産加工品を考えるべきなのか?その場合、この土地にあった歴史をどうとらえ直すべきなのか?です。特に、このカテゴリーのなかでは断トツの存在感を放ってきた地中海沿岸国(ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン)において共通の課題です。
(以前、スローフードのワールドカンフェランスがシチリアで開催されたとき、それぞれのお国自慢の食べ物を紹介するようにとの課題が参加者に課されました。その時、バルト三国のある国の代表はスーパーに売っているチーズをもってきた、とのエピソードがあります。それだけプライドをもって紹介する食の材料が足りない現実があるのです)。
テリトーリオと15分都市に共通する要素は何か?
『イタリアのテリトーリオ戦略』の編者、テリトーリオの観点に注目する木村純子さんは、農村を農作物の生産拠点としてだけでなく、あるいはアグリツーリズモにあるような観光拠点としてだけでみるのではなく、自然環境の保全の当事者や文化アイデンティティの対象としてもおさえるべきと語ります。
つまり農村を単機能に捉えている限り、景観でさえ消費の対象に限定されてしまう。人が生きるにあたり全てがある(それこそ、Vita(life)が生命、人生、日常生活のすべてを包括する言葉であるように)空間として考えるのが適切なのですが、これは有形・無形の資産を多機能的・多義的に見ることを意味します。テリトーリオはそういう性格があるので、15分都市における重要なポイントと重なってきます。
道を移動の空間としてだけみなしている限り、クルマを締め出す、一方通行にする、歩道を広める、とのインフラ整備で終わってしまいます。道は人々が散策し、そこで雑談が生まれる確率をあげるような空間にすると考えるのです。学校も子どもたちの昼間の授業が終われば、近隣住民の家庭菜園やコワーキングスペースとして活用する。これらが15分都市における空間に対するアプローチです。
つまり多機能・多義性を重視するので、テリトーリオと15分都市の間には考え方のうえで共通項があるといえます。ここです。ぼくは『イタリアのテリトーリオ戦略』を読んでいて、都市であれ、農村であれ、あらゆる場所に多機能・多義性が文化土壌として共通に求められていると思ったのですね。これが社会のレジリエンスをも導く。そして、イタリアの文化はこの点において実際に充足しているかどうかは別として、志向性が高い。だからこそ1920年代の環境の法律にあるような特徴が出てくるのです。
(夏休み前、アムステルダムで建築事務所を長く経営しているイタリア人と話していたとき、彼が「ここは実験的な事例が多い。一方、ミラノにはここほどの実験数はないが、全体を構築するのが得意」と話していたのを思い出しました)。
東洋思想は全体を捉え、西洋思想は分析的に細切れにするとの声がよくあります。が、一方で全体の構図を最初に描くのが西洋で、日本は細かい断片の集積で全体を作っていくとも言われます。これは矛盾するのではなく、事態を捉える場合と、何らかのものを作っていく場合で違ったパターンをとるとの傾向を示していると思います。こうした傾向があるなかで、テリトーリオに基づくアプローチには、全体で捉え全体をみてつくる姿が窺え、世界の15分都市実現に示唆する点は多いと感じるのです。
更にちょっと気になったところ
最後にちょっと気になったところをメモしておきます。最後、陣内さん、須田文明さんとの鼎談での木村純子さんの発言です。
イタリア語の「パッセジャータ」を日本語の「散歩」と翻訳しても、パッセジャータが描くブルブラしながら道で出逢った人と軽く言葉を交わすとのシーンがなかなか思い浮かべられない。散歩は今や健康のためのウォーキングに近いものになっていると指摘しています。歩く行為が単機能になっているということですね。これは15分都市を議論する際に深めないといけない点だと思います。
(先日、ストックホルム経済大学でリーダーシップを教えるベルガンティと話していた時のことを思い出しました。彼に外国でイタリア人と見分けるコツは?と聞いたら、「服への気遣いが一つ。もう一つが歩き方だ。今、住んでいるストックホルムでは人は目的地に向かった歩き方をするが、イタリア人は誰かと会話するための歩き方をする」と答えたのです)。
もう一つ、彼女が食育の日伊比較研究をしたときの経験です。パルマではパルミジャーノチーズの作り方を教えるに、子どもたちを乳牛をつくる農場に連れていき、その乳を使い、仔牛の胃からとった酵素で凝乳させる。酵素は高価だが惜しまずに使うというのです。日本では凝乳させるのにレモン汁などを使うと言います。「タンパク質に酸を入れて変性させ固める様子は理科の実験室のようです。そういう説明をすると食育が科学になってしまいます。他方、パルマの食育はカルチャーです」と話しています。
まったく偶然にも今、読書会の課題図書として『チーズと文明』(ポール・キンステッド)を再読しています。マルクス・テレンティウス・ウァロ(BC116-28)が『農業論』に、イチジクの樹液と酢を一緒に使うことでミルクが凝固すると気づいていたと書いています。またルチウス・ユニス・モラトゥス・コルメラも60年頃に『農業論』を著し、凝乳酵素を採る方法として3つ挙げています。野アザミの花、ベニハナの種、イチジクの樹液をあげ、必要最低量を守れば、どれも良質なチーズができるとしています。
ぼくは、この分野のまったくの素人なので誤解があるかもしれないですが、日本で子どもたちにチーズの作り方を教えるにあたり求められるのは、レモン汁と酢を使いながら、この古代ローマ時代にチーズをつくるにさまざまな試作と苦労をしていたことを話すことかもしれません。科学と人文の両方が食育の基本ではないかと思います。
尚、冒頭の写真は、今月はじめ、セラミックの街、ファエンツァの郊外にあるアグリツーリズモから周囲の風景を撮影したものです。