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ペットボトルのはなし-存在ってなんだろう-

こんにちは、ナラティブベースのハルです。突然ですが、わたくしこの度、離婚しました(唐突!)。22年と半年という長い期間、ひとつのカタチの終わり。私事ではありますが、この出来事を通して考え学んだことはたくさんあったので、今回は日経COMEMOの「#あなたの個人パーパスは」とリンクさせる形でわたしの今回の経験の一部をシェアしたいと思います。
通称「ペットボトルのはなし」。子どもたちに離婚のことをどんなふうに理解してもらったのかというおはなしです。

どちらかが悪いの?

離婚は夫婦の問題であると同時に子どもも含めた家族の問題であることは間違いありません。でも、夫婦の関係が変わってしまうことによって起こる出来事です。夫婦で話し合った結果、離婚をするという結論を出して、それを子どもに説明するという流れが一般的かもしれません。

うちの場合は子どもたちも大きく、流れから夫婦の話し合いに参加してもらうこともありました。とはいえ下の子はまだ年齢的にも「喧嘩の仲裁」という立場で物事をみていて、問題解決の糸口を「相手の何が悪いと思っているのか?見方を変えることで解決できないか?」という対立構造の解消に求めていました。ふたりの大事な親が、どちらかが悪いわけがない!何か誤解がされているはずだ!という思いも大きかったのだと思います。

そこで、子どもたちに親の離婚を理解してもらうためには、この問題が喧嘩という対立構造の延長上にある問題ではなく、夫婦の関係性の変化の問題であることを説明する必要がありました。これがなかなか大変でした。

こんな個人的なことを記事にするつもりはなかったのですが、先日同じCOMEMOのKOLの小島さんが書いていた以下の記事を読んで、なるほど事情(家庭それぞれ)や説明対象(子どもの年齢)によっても、伝えたいことやポイントも異なるのだなと思い、わたしのケースを書いてみたいと思いました。

存在ってなんだろう?

子どもたちとわたしが何度となく話をする中で、最終的に腹落ちしてくれたのが、ペットボトルを使って話した、「存在」はひとつではないという話でした。ダイニングテーブルで話していて、なんとなくそこにあったペットボトルをテーブルの真ん中に置いて、こんな話をしたのです。

このペットボトルがね、パパだとするでしょ。
でも、ここには実はね、パパはいないの。
どういうこと?って思うよね、
どういうことかというとね、
●●(息子)や○○(娘)にとってのパパは、
実はこの間(ペットボトル↔︎息子)(ペットボトル↔︎娘)にいる。
それで、ママにとってのパパは、
実はこの間(ペットボトル↔︎わたし)にいる。
だから、ここには3人のパパという存在があって、
それぞれ違って当然なの。
パパの身体は一つだから、これ(ペットボトル)みたいに一つに見えているけど、本当はそこにはパパはいない。
つまり、ママにとってのパパが変わってしまったというだけの話で、
あなたたち(子どもたち)にとってのパパは変わらないんだよ。

この話をしたところ、子どもたちはなんだか安心した様子でした。視点が少し変わって、自分たちの仲裁がうまくいかないと不安がっていた状態から脱し、離婚についてもそれぞれの思いはあるものの、納得をしてくれる方向に向かいました。

以降、我が家ではこの話を「ペットボトルのはなし」と呼び、親子の会話の中でも「『ペットボトルのはなし』でいうと・・・」といった具合に、関係性を含むものごとの解釈(存在)の話に使うようになりました。

存在が意義を持つとき

さて、話がとてもとてもプライベートな方向に振れましたが、この「ペットボトルのはなし」をもっと拡張して考えてみると、家族にしても、組織にしても、あらゆる関係性において「存在」を捉えるときに使える視点になります。

わたしたちは「個性の発揮」「個人の能力」「個人の目的」といった具合に、それぞれの個がひとつのような話し方をしますが、実は個人の「存在」は関係性の中に無数にあります。もちろんそれを一つに統合したときの共通項としての「自分」はあるかもしれませんが、それも言ってみれば、自分と自分の間にある一つの解釈でしかない、時の流れとともに、また語る相手によって、容易く変わるもののようにも思います。

つまり「存在」とは点ではなく、線や面で人とつながって関係性を持ったときに初めて生まれるものであるとするならば、そして関係性の中で何かの影響を与える、力を発揮する、ことを「意義」と呼ぶならば、個人はその単体として意義は持ち得ないのかもしれません。

「パーパス経営」がスタンダードになりつつある今、会社がもつ「存在意義」は、会社が個人の集合体だからこそ生まれるものではないでしょうか。
「存在」に「意義」が生まれるのは、わたしたちが個人としてではなく、つながって集合体として働くからなのではないかと思うのです。

また、以下の対談記事のように、人と人というつながりだけでなく、事業と事業、モノとモノ、それぞれの関係性(例えば二項対立的な発想)の中で、それぞれの「存在」が定義され、そのとき必要な「意義」が生まれる…経営とは、その意義を生み出す仕組みなのではないかなとも思うのです。

ひとりの中の多様性

最後に一つ付け加えるならば、個人が持つ「存在」がひとつでないということは、(個人個人が違うという意味での多様性と別に)ひとりの中にも多様性があることを意味していると捉えられます。

自分を分解して複数の存在、そして複数の意義を考えなおすことは、まわりとの関係性を深く観察するきっかけにもなります。また、それが自分の周辺にある様々な多様性を取り入れていくということにもつながるのではないでしょうか。

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わたしは今回、離婚という個人的な経験を通し、自分のペットボトルのまわりにある「妻としての自分」「母としての自分」というそれぞれの存在意義を深く考えるきっかけをもらいました。また、それを子どもに説明し理解を促さなければならないという難題もいただき(汗)つたないながらも「ペットボトルのはなし」という親子の共通言語も作り出す(?!)ことができました。
これからまた新しい家族のカタチを作り出すのはそんなに簡単なことではないけれど、引き続き自分の多様な存在意義について考えていきたいと思います!

最後までお読みいただき、ありがとうございました^^


#日経COMEMO #あなたの個人パーパスは

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