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ハラスメント文化への「参加」から降りるために

「積極的に参加しよう!」「参加者募集!」「参加したら楽しかった!」というように、「参加」という言葉にはポジティブな響きがあります。ぼくもこれまでの記事のなかで、男性が育児家事に”参加”することの意味や、子どもの遊びに”参加”することの意義など、参加のポジティブな側面に光を当ててきました。

しかし、”参加”にはダークサイドがあります。本人の意志によらず、なんとなく、そうするべきものだと無意識に考えて、”加害”に”参加”してしまっていることがあるのです。

今日は、そのような「愚かな悪」の文化になぜ参加してしまうのか、その参加をやめるにはどうすればいいのかを考えてみたいと思います。

就活セクハラから考える

先日、日経電子版でとある記事を見かけました。

選考やOB・OG訪問など学生の就職活動における性的嫌がらせ(就活セクハラ)が、オンライン化しても続いている。さらには、男性から女性へのセクシャルハラスメントだけでなく、女性から女性へのハラスメントもあれば、男性に対するハラスメントも多く存在することが描かれています。

記事中では「セクハラ」という言葉が多く使われていますが、セクシャリティ(性指向のあり方)ではなく、ジェンダー(社会的性差)におけるハラスメントも含まれています。

記事の最後には、セクハラへの対応策として、いくつかの方法が紹介されています。

オンライン面談の場合
(1)怪しいなと思ったら映像や音声を記録し、どんな被害にあったかメモを残しておく。
(2)その上で大学のキャリアセンターや弁護士を通じて相談する。
性的な質問をされたその場で「それはどういう意味で聞いているのですか?」と聞き返すのも手だと いう。それでも収まらなかったら、「今日はこれで失礼します」と一方的に画面を閉じて接続を切れ ばいい。

こうした対応策を事前に知っておき、とっさに行動することができれば、被害を受けた方も救われることがあるでしょう。

しかし、その対応策を知ることだけで、この記事から考えることは終わりではないはずです。私たちはなぜハラスメントをしてしまうのか。ハラスメントをしている人たちが、それをやめるためにはどうすればいいのか。そのことを考えなくてはならないでしょう。

「愚かな悪」としてのハラスメント

まず考えてみたいのは、ハラスメントをする人たちはなぜそうするのか?ということです。

この問いについて考えるためのヒントとして、ゲンロン11における東浩紀さんの「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故途中胴体の記憶」から、一部分を引用します。

東さんは、チェルノブイリ原発事故がどのように記憶されているのかを、実際に現地に赴いた体感を交えた分析ののち、國分功一郎さんの『中動態の世界』とハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』を参照しながら、「凡庸な悪」「愚かな悪」という二つの悪のあり方を比較して以下のように書かれています。

凡庸な悪は受動態的に加害に加担する。殺したくないが、我慢して殺す。超越者のために殺す。精神分析のことばでいいかえれば、「超自我」のために、あるいは「父」のために、自我を抑圧して殺す。
愚かな悪は中動態的に加害に加担する。殺したいわけでもないが、かといって殺したくないわけでもなく、なんとなく殺す。そこには超越者はいない。規則もない。超自我も父もない。ほんとうはだれも命令していない。

ぼくはこのテキストを読んで、ハラスメントという「加害」のあり方は、「愚かな悪」の事例の一つなのではないかと考えたのです。

「就活セクハラ」の記事の中で、ハラスメントの加害者たちは、就活をする方の写真を社員同士のLINEで共有して楽しんだり、お酒の力を借りて性的な話をしたり、あるいは男性の就活生にむかって性的な質問をしたりしています。それによって不快な思いをし、傷ついた人の経験が綴られています。

しかし、おそらくハラスメントをする人は、傷つけたいと思って傷つけていない。でも、「こんなことを言ったら傷つくだろうな」という配慮はなく、支配したり、自分がもっている「あたりまえ」の範疇に相手をおさめたりしようという暗い衝動に、無自覚に突き動かされている。誰かに命令されたわけでも、そのようにせよという規則があるわけでもなく、なんとなく加害している。

なぜこのように無自覚に、愚かな悪になってしまうのか。それはもう一つ、「私たちが参加している文化」について考える必要があるでしょう。

何を「あたりまえ」とする文化に参加しているのか?

たとえば、男性に対して「彼女はいるのか?」「男なのになんで事務職志望なの?」といった質問を投げかけた例について考えてみます。

このような質問を投げかけた方は、それがハラスメントであると認識し、相手にハラスメントをしようと意志をもっていたとは考えにくいでしょう。

そうではなく、自分がもっている「あたりまえ」の視点から相手を知ろうとしたと推測できます。

たとえば「彼女がいる男性は、コミュ二ケーション能力が高い」「恋愛の話をすると、その人の本質が見えやすい」といったバイアスが、そのような質問をさせたのかもしれません。また、「男性は総合職を目指すもので、女性は事務職を志望する」という「あたりまえ」を持っていて、その「あたりまえ」から外れる人に対して素朴に疑問をなげかけただけなのかもしれません。

そして、そのような質問をした人が個人としてこのような「あたりまえ」をもっていたわけではないはずです。「男性は総合職を目指すものだ」とか「彼女がいる男はコミュ力が高い」といった「あたりまえ」が中心にある文化に参加してしまっているのです。

そのような「あたりまえ」を「そうすべきもの」として認識し、そうであるようふるまうことで、その文化を再生産することにも、参加してしまっているのです。

それは言い換えるなら「総合職で彼女がいて仕事がデキる人」を師匠/ロールモデルとし、自分や他者がそうなるように目指している文化であると言えます。

正統的周辺参加論とハラスメント

人間の学習を徒弟制(師匠と弟子の関係性)から理論化した「正統的周辺参加論」という学習モデルがあります。

この理論では、弟子は師匠の身振りや手癖をみならいながら、最初は周辺的に実践に参加し、次第に中心的に実践を担い、後継に伝えていく役割を担うようになる、というプロセスが描かれています。

このプロセスを、セクシャル/ジェンダーハラスメントに当てはめてみると、似たような「学習」が起こってしまっていると言えるでしょう。

就活生と関係をもったこと自慢げに話す”師匠”がいて、その"師匠"への憧れやルサンチマンから"見習って"しまい、就活生と関係をもとうと考え、試みる、というプロセスです。

その愚かな悪しき"師匠"もまた、誰か別の"師匠"から継承された悪の実践をしているのでしょう。

こうして脈々と受け継がれる「愚かさ」に、ぼくたちはそれを愚かなことだと気づかないまま参加していることが多くあります。

何ができるか?

「師匠/ロールモデル」が諸悪の根源であるとすれば、ぼくたちにできることは、非ハラスメント文化のロールモデルを見つけ、とりあげ、そのような文化に参加することでしょう。

しかし、そのようなロールモデルの存在がなかなか見つかりにくい。あるいは自分たちでつくっていかなければならない。未知のものをつくりあげるのは非常に苦労します。そのような非ハラスメント文化の構築にこそ、「イノベーション」が必要なのだとぼくは考えています。

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