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訂正可能性と固有名詞

 さて,本日は少々哲学的な話をしましょう.思想家というか批評家というか経営者というか……なんと肩書をつけていいのかわからない(←ここ重要)東浩紀氏のテーマである「訂正」について.

※書籍の紹介も少ししてるけど,私,書評苦手なので……同書からインスパイアされた私見を書きます.以下の2点の内容を紹介しているわけではないのでご注意を.

 9月に上梓された『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書)につづいて,10月にはその普及版である『訂正する力』(朝日新書)が出版されました.ごく短い概要については,下記の紹介を参照ください.

 個々人にとっての意見,言論人にとっての主張,政治家・実務者にとっての政策について,私たちは,変化しないことを高く評価する傾向があります.しかし,完全無謬の主張はなく,万古不易の正しい政策などありません.現実の主義主張・ビジネス・政策は状況に応じてつねに訂正されながら,修正されながら機能していくものです.
 このようにまとめると,当然すぎて無意味な内容のように思えるかもしれません.しかし……訂正の困難性が事態を悪化させることは多い.
 自らの発言の修正困難から非効率的な政策措置が選択される瞬間を私たちは先週見たばかりです.(より簡単でスピード感ある発動が可能な給付措置ではなく)減税という謎の手段で行われる家計支援に政治シーンにおける訂正困難さが実感できるでしょう.

 必要なのは「発言の撤回」や「棄教」ではありません.訂正です.より効率的な手段の発見,情勢の変化に際して当初主張を改めることは,当然の変化であり,むしろ望ましいことでしょう.

 なぜ,かくまでも訂正は困難なのか.同シリーズにおいて重要視される「固有名詞」の特性を援用して考えてみましょう.

固有名詞と一般名詞

 まずは導入的解説……一般名詞とは「りんご」「三角形」「経済学者」のような一般的な何か(カテゴリ)の名前です.一方で,固有名詞は「有楽町」「飯田泰之」「上杉謙信」のような特定の対象のみを指示する名前です.

 ここで,以下の文を読んでみてください.

「有楽町の町名の由来はじつは織田有楽斎(信長の弟)である」
「飯田泰之はじつは酒が苦手である!」
「上杉謙信はじつは女性だった!」

いずれも文として成立しうることがわかるでしょう.ちなみに上の3つはいずれも偽(正しくない)言及ですが……とにもかくにも文意は理解できる.
 一方で,こちらはどうでしょう?

「りんごはじつは果物ではない」
「三角形の内角の和はじつは360度である」
「経済学者はじつは役に立たない」

りんごの定義が「バラ科リンゴ属の果実」であり,三角形は「内角の和が180度の図形」と定義されている以上,これらの言及は意味をなさないのです.このように,定義によって定まっていて,その定義にあてはまらないものはそもそも「リンゴではない」「三角形ではない」のが一般名詞の特徴です.

 なお,一般名詞についてもその定義とは無関係の「じつは...…である」という言及は可能です.「経済学者はじつは役に立たない」という文はその真偽はともかく,文として成立しています.

※「経済学者はじつは役に立たない」は偽で,正しくは「経済学者はやっぱり役に立たない」ではないかという疑問は地獄にでもぶん投げておいてください.

 定義によって対象が特定され,その定義を満たさないものは対象とは異なる存在と判断されるのが一般名詞の特徴です.

いわば一般名詞とは「定義の束」なのです.

 一方の固有名詞は定義によって定まるものではありません.上杉謙信を1530年生まれ1578年没の戦国武将で云々と呈してたとしても,その定義は今後の資料研究によって変更される可能性があります.北条早雲にいたっては近年の研究で生年どころか名前まで変わりましたが北条早雲は北条早雲なわけです.固有名はその性質の先にあり,各自の特性は名前の後に判明していくものなのです.

固有名詞性の濃淡

 さて本題です.なぜ現代の言論・政治において訂正が困難になっているのか.ここでは,筆者になじみ深い論壇のお話から始めましょう.ある論者が論壇でとりあげられるとき.その人の個人名よりも,その主張……またはキャラが重視されます.ここで,

・飯田泰之が金融緩和を主張している

・金融緩和を主張する飯田泰之

の違いについて想像してみてください.以前から私のことを知っている人にとっては「飯田泰之が金融緩和を主張している」という表現がしっくりくるでしょう.一方で,リフレ論壇で初めて私の名前を知ったという人にとっては,後者のように主張によって飯田泰之を認識しているものと思われます.いわば,

リフレ派(=金融緩和を主張する数多くの論者)という定義に当てはまる一例が飯田泰之である

わけです.後者において,飯田泰之の固有名詞性は低く――リフレ派という一般名称の一例として飯田泰之が把握されることになる

※リフレ=金融緩和を主張する人という定義は私としては非常に不満なのですが,ここでは理解のための例と把握ください.

 固有名詞として飯田泰之を把握している人にとっては,飯田の主張がどう変化しようと飯田泰之は飯田泰之です.
 しかし,一般名詞の一例として飯田泰之を把握している人にとって,金融緩和を主張しない飯田泰之は「これまでの飯田泰之とは違う存在」になります.

 デビュー当初の論者は,その主張や著作と強く結びつく形で把握されます.私ならば金融緩和論でしょうし,東浩紀氏ならば郵便・誤配という概念かもしれないし,古市憲寿氏ならば『絶望の国の幸福な若者たち』でしょう.また論壇でなくとも……林修氏ならば「今でしょ」なわけです.
 その一方で,私はさておき,現在の東氏,古市氏,林氏をみたときに郵便とか絶望の国とか今でしょが最初に思い浮かぶという人は少ないと思います.

 関係ないですが,先日林修さんとご一緒した時にふと氏が予備校講師であることを忘却したまま受験話をはじめてしまい汗顔の至りでした(すぐに気づいたけどね^^)

 これは彼らが次第に,著作・発現・主張の束によって把握される存在から「固有名詞性」の高い存在に変化していったことを示しています.そして,固有名詞性が高い人ほど主張を変えても社会的な意味での同一性を失わない(一部の人に失望はされるかもしれませんが)

 少しだけ書評っぽいことを書いておくと,2010年代の東浩紀氏が「変わった」「迷走している」「病んでいる」と酷評されることが少なくなかった理由もこの「固有名詞性の獲得」と無縁ではないと,私は,考えています.社会的認識以上だけではなく自己認識として――哲学者・思想家であり,数々の主張の束としての東浩紀から「東浩紀」へと変化する過程が東氏とゲンロンの2010年代だったのかもしれません.
 東ファンもそのアンチも,「東浩紀」がいかにして再獲得されていくかの物語として読むと,『ゲンロン戦記』をよりいっそう楽しむことができるのではないでしょうか?

専門性の時代とキャラ立ち

 現代は専門性の時代といわれます.メディア・論壇ともに「評論家」よりも「経済評論家」が,「なんでも詳しい人」ではなく「〇〇の研究者で××の専門家」の発言が重視される.
 私はこの傾向を,一般的には,望ましいと考えています.専門的な訓練・知識・思考ツールなしに現代の政治・経済・社会を語ることは不可能だからです.専門性なき評論のほとんどは雑談となんら変わりません.
 一方で専門性の重視は,時に,固有名詞性の獲得を困難にします.実際,少なからぬ人にとって私の発言は「飯田泰之の発言」ではなく「明治大学教授の経済学者」の発言として認識されているでしょう.

 この専門性重視の傾向が強化されると……よりニッチ/ピンホールなマーケティングの有効性が増すことになります.例えば,〇〇評論家・△△学者であることよりも「保守派言論人で,憲法改正を主張し,××党を指示している政治評論家」や「リベラル派言論人で,ベーシックインカムの導入を主張し,グローバル資本主義からの脱却を主張する経済学者」であることの方が「キャラ立ち」する.キャラが立っていることで出演依頼や動画サイトの加入者が増える

 私は経済学者なので,人はインセンティブに戻づいて行動すると考えます.もっともインセンティブは金銭的利益だけではなく,周囲からの賞賛(承認欲求の充足)のような非金銭的利益のこともありましょう.

 「主張の束」としてメディアに登場する方が利益が大きいならば……多くの言論人は自らを主張の束として流通させるようになる.
 主張の束として社会・メディアに認識されている論者がその主張を訂正することには大きなコスト・リスクが存在します.

いま,彼の動画サイトに加入している人はその「主張の束」の支持者です.

いま,彼に出演・執筆してくる局や版元はその「主張の束」を繰り返すことにギャラを払おうとしているのです.

 一度社会に,ファンに,メディアに特定の主張の束として認識された存在は--それを訂正することはこれまで積み上げてきた認知を放棄することになります.(狭い意味で)合理的に行動するのならば,そんなもったいないことはしない.かくして少なからぬ論者はこれまで以上に訂正を避けるようになるでしょう.

訂正可能性にむけてのステップ

 ここで話は冒頭に戻ります.特定の主張の束が無謬で万古不易の存在であることはありえません.だれにも誤りはありましょうし,状況が変化すれば最適解は変わります.様々な論者,専門家の発言を受容する際には主張の変わらなさではなく,訂正の正当さを評価する必要がある.

 その一方で,言論の受け手は,このような評価方法の転換を進めることができる人ばかりではない.その結果,本人の知見や認識は変化しているのに……ファンや依頼元が喜ぶ主張を繰り返すことに終始している論者を見かけることもある.
 特定の主張の束をもってファンを集め,その課金を収益とする手法は時に「信者ビジネス」と呼ばれます.しかし,現実の信者ビジネスをみると……教祖が信者を導いているというよりも,信者に教祖?が追従しているように感じる例が少なくないものです.

 これは,金銭的には正解?でも,精神的になかなか苦しい営為です.だからこそ,金銭的な損失を最小にして,論者もメディアも訂正可能性を高める方法をさぐらなければいけない.

※本エントリでは,私にとってなじみのある論壇を例に説明を進めましたが……政党や政治家においても同様です.金銭的利益を得票に置き換えてみてください.

 このような時に役に立つのが,主張の手段化です.「憲法9条の堅持こそが重要だ」という主張の階層をひとつあげると……「日本の平和を守るためには憲法9条を守る必要がある」というものになるでしょう.目的はあくまで平和であり,憲法9条はその手段の一つであると,その位置づけを変えるのです.
 手段に過ぎないならば,より有用な道具があるならばそちらに乗り換えればよい.つまりは,「日本の平和を守るためには,これからは,憲法9条をこのような形に変えていこう」という主張の変化は「ファン」にも受容される可能性があります.

 このような「主張の上手な/巧妙な/狡猾な/姑息な訂正方法」を活用することで,訂正のダメージをコントロールしていく必要がる.

 近年の世界・日本では政治・外交・安全保障・経済が大きく転換しつつあります.この局面で,これらのウマい訂正を活用する論者・メディアが10年後にもその価値を維持することができるのではないか……そんな予感がするのです.
 

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