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インクルージョンのための「時間」と「距離」

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はちょっと「インクルージョン」について書きたいと思います。

インクルージョンとは、異質性を受け入れること

インクルージョン」という言葉をよく耳にするようになったと思います。

「DEI」と、ダイバーシティ(多様性)や公平性とセットで語られることが多いのがインクルージョンです。日本語では「包摂」と約されますが、これは、他者や異質なものを受け入れることを意味します。

この対義語は、「エクスクルーシブ(排他的)」です。ビジネスではよく、契約で「エクスクルーシブ」な条件がつく時がありますが、これは、相手とだけ取引するという約束で、「自分たち以外」の人は入ってこれないようにすることです。ある意味で一夫一婦制の約束のようなもので、「他に浮気をしない」と結束は高まりますが、互いに依存度の高い専有の関係になることでもあります。

インクルージョンはエクスクルーシブの反対なので、一見すると「自分たち以外」と思えてしまうような異質な存在をも排除せずに受け入れるということになります。ここで、そもそも自分たちと同質なものを受け入れることは当たり前なので包摂にはならない、ということに注意する必要があります。異質性があってこその包摂なのです。

インクルージョンがダイバーシティとセットで語られるのもこの理由によります。ダイバーシティというのは「ちがい」を前提にしているからです。

「ちがい」がなければそれは単なる「同質性」であり「多様性」ではありません。「ちがい」を前提にして受容するからこそ、インクルージョンは重要なのですが、一方で「ちがい」があるために、それはしばしば葛藤を伴います。

同じ地域で育ち、思想や宗教など文化的背景が近い人と一緒に住むことはそれほど大変ではありません。しかし、宗教や政治、文化的背景が異なる人と住むと、お互いの価値観や美徳が衝突が起こります。


理想論的には、異なる考えを持っていても対話を通じて共通意見に到達できればよいのかもしれません。しかし、必ずしもそうできるわけではありませんし、結果として「分かり合えない」ということも全然ありうるので、問題は「分かり合えない」人とどう共にあるか、ということかもしれません。

「di-verse」という言葉はそもそも「別々に-向かう」ということを意味しますし、意見がちがっても共存できる道を探ることだと思います。

「対話」を重ねて意見をまとめることはいいことのように思えます。しかし、こうした「すり合わせ」がもともとの多様性を失わせる可能性もあります。

たとえば「グローバリズム」。みんなが国を超えて共同体や共通の価値観にに達することはいいことのように一見思えます。しかし、「マクドナルド化」と言われることもあるように、内実として欧米的な資本主義の押し付けになることもあります。これはuniversal「一つに-向かう」な均質化です。

その際、ローカルな民族の文化は「未開」とされ、元の文化がなくなってしまうこともあります。西洋から見れば良いことをしているように思えるかもしれませんが、本当にそうかどうかは悩ましい問題です。

対話や説得を通じて意見が一つに集約されることは、universalではありますが、ダイバーシティの観点からは疑問が残ります。そういう意味で「ちがい」をなくさず、それを認めつつ排除せずにインクルードすることも必要になります。


ケーススタディ:「包括的性教育」

インクルージョンにおいては「時間」と「距離」が大事だというのが僕が最近考えていることです。

例えばこの間、「包括的性教育」についてTwitter(頑なにXと呼ばない人)で議論になっていました。

「包括的性教育」は、「人権」に対する配慮をベースに、下記のようなキーコンセプトが定められています。

1.関係性
2.価値観、権利、文化、セクシュアリティ
3.ジェンダーの理解
4.暴力と安全確保
5.健康と幸福のためのスキル
6.人間のからだと発達
7.セクシュアリティと性的行動
8.性と生殖に関する健康

人権をベースにして、性的同意や性自認のことについて学ぶのですが、こうした教育について下記のような批判や反対意見もあるようです。

みなさんは上のツイート(頑なにポストと呼ばない人)で引用されているイラストをご覧になってどう思いますか?


このツイートへのリプライやリツイート(頑なにリポストと呼ばない人)をみてみると、反対や懸念を示している人の論点としては、「こんなに具体的に性のことを見せていいのか?」というのと「同性愛とかを教えるのか?」ということが2大ポイントのようです。

ちなみに、僕個人は「包摂的性教育」自体に問題があるとは思いません。むしろ日本では性教育が足りなすぎるとおもっているくらいで、とくに男性は正しく性のことを教わる機会がなく、エロ本やAVしかお手本がない現状は変えていったほうがいいと思っています。

また、性同一性障害のこともよく知らずに「おかしい」と思ってしまうのはつらいと思うので、知ることで救われる人もいると思っています。一方で、「こういうことを教育で教えるから性同一性障害が増える」とか「自然に反することをわざわざ教えるな」という意見もあるようです。


インクルージョンのための「時間」

「差別」がいけないのは勿論ですが、しかし一方で、「実際子どもが同性愛者だったらショックを受ける」という親の声を聞くこともありますし、性自認をどのように捉えるかなども色んな意見があっていいと思います。


ただ、上記のツイートに関して言うとちょっとミスリードなところがあるので注意が必要かなと。

というのも、このツイートが物議を醸したのは、そのデザインによるところもある気がするのです。「性の絵本」というタイトルでこの絵柄だと、なんとなく未就学児に読み聞かせするようなイメージでみてしまいます。

ただ、↓をみるとわかるように実際にはこちらの教材、「13歳頃から」を読者目安にしているんですよね。

制作者の意図としては、性に関することを生々しくならないように、可愛らしいイラストで表現したのだと思うのですがデザインがちょっと子供っぽいので、「おいおい、性交とか自慰とか同性愛とか小さい子供に教えるのかよ?」と不安をかき立ててしまったのではないかな、という気がします。


個人的には、性交や性的同意、性自認について学ぶ上で13歳だったら全然早くないのでは、と思います。小学校高学年でも、月経が始まったり、性的な欲求が芽生えることを考えると、ちゃんとリスクや選択肢も含めて知っておいた方がいいのでは、という派です。

ただ、これを5歳の子どもに教えるべきか、というとちょっと話は変わります。性教育はしっかり行うべきですが、適切な時期を考慮することも大切です。

インクルージョンの上では知ることは大切ですが、「時間」を考慮することも必要です。知るべきことだから全員が知れ!という無時間的な包摂は押し付けになってしまう気もします。

また、インクルージョンが異質性の包摂だとすると、そこには必ず葛藤があり、価値観や思考が変化するのにも時間がかかります。異質なものを理解するにはじわじわと馴染むための時間を考慮することも重要ではないでしょうか。


インクルージョンのための距離

もう一つ重要なポイントは「距離」です。

最初に述べたように、多様性は根本的に異質性であり、「分かり合えない」こともあり得ます。そのように価値観や意見がちがう時に、何でもかんでも包摂しなければいけないと、一緒にい続けたり隣に座ったりするのが良いかというとアナフィラキシーショックを起こしかねません。

たとえば僕は若い頃、意見が合わない上司や同僚がいた時に、「わかってもらわないと」と思い込んでやたら積極的に話にいって、結果として相手がますます頑固になり、関係がこじらせてしまった経験があります。でもこれって「対話」をしに行っている風で「これがなんでわからないのか」と自分の意見を相手にも認めさせたいエゴだったかな、と今は思います。


人間には近い相手との意見の相違が許せなくなる、という思考の癖があります。これは「内集団バイアス」の「黒い羊効果」と言われますが、近すぎると同質性を強く求めてしまうのですよね。

例えば、遠い異国の、明らかに自分とはちがうという人の意見であれば「まあそういう意見もあるか」と流して聞けることでも、家族や身近な人だと意見の不一致が許せなくなることが割とよくあります。


こうした時、「対話を」と膝を詰めて息苦しくなるくらいなら一旦距離を置くのも良いのでは思っています。ダイバーシティやインクルージョンにおいては、「ちがい」をゼロにすることはできません。それをゼロ距離で包摂しようとすると、押し付けやどちらかを押しつぶす事になりかねないかもしれません。

隣で接していないからといって認めていないわけではありません。適切な距離感があるからこそ、衝突にならずインクルードし、共にあれることもあるのではないでしょうか。


ダイバーシティやインクルージョンは大事です。しかし余白をもたなければ、かえって多様性が押しつぶされ均一化してしまったり、無用の分断を生んでしまうこともあるので、「時間」や「距離」を考えることも大事なのでは、と思っています。


追伸:Voicyで「インクルージョン三部作」的に連続でお話した(今回の記事は三回目のものをまとめたもの)ので、よかったら前の回も聴いてみてもらえたらうれしいです


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