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ダイバーシティにおける「ちがい」と「おなじ」の相補性、そして「異化」と「和」

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「ちがい」と「おなじ」について書いてみたいと思います。


「ちがい」と「おなじ」

最初にちょっと簡単なワークを。

「ちがい」を見つける問題です。

次の2枚の絵からそれぞれ、一つだけ「他とちがうもの」を選んでみてください。

いかがでしょうか?どちらも解けましたか?

簡単そうで意外と難しかったかもしれません。


これがたとえば、

とか

だったら、わかりやすかったかと思います。


「ちがう」は「おなじ」があって初めて成り立つ

この問題で体験してほしかったこと、それは「「ちがい」は「おなじ」があって初めて成り立つ」ということです。

「ちがい」と「おなじ」は一見対立した概念のようですが、実は相補的な関係にあります。

相補的とは「おなじ」があるから「ちがい」が成り立ち、「ちがい」があるから「おなじ」が成り立つ、どちらがなくてもどちらかが成り立たないという関係です。

最初の2枚のイラストから「ちがい」を探す問題がどうして難しかったかというと、じつはこの中に「おなじもの」がなかったからです。

しかし、3枚目だと2つ「おなじ赤りんご」があるので「青りんご」がちがう、というのがすぐわかります。

4枚目では、黄色い梨の中に一つだけ「赤りんご」があるので「ちがい」が選べます。あるいは、丸い形の中に一枚だけ「洋なし」があるのでこれだけが「形のちがい」ということもできます。

ここからわかるのは「ちがい」は事物それ自体の性質として絶対的に存在するものではなく、あくまで相対的なものだということです。

「青りんご」は1枚目のイラストでは「ちがい」ではありませんでした。しかし他に「おなじ」ができると「ちがい」になります。あるいは4枚目のように、いくつかのものが並んでいてもそこにどんな「おなじ」を見つけるかによって「ちがい」は異なります。

さらに原理的にいえば、実は世界には「ちがい」しか存在しません。世界中にあるりんごの中で「おなじりんご」は一つとして存在しないからです。形、色、それが仮にクローンだとしても厳密に言えばすべての個体がちがいます。

こうした原理的な「個的ちがい」だけでは世界を認識するのには膨大な情報量が必要となります。そこで脳はちがうものの中にある種の類似性をみつけ、それを「おなじ」とくくることで省力化します。するとここに、「おなじ」からあぶれたものとして改めて「概念的ちがい」が生まれ、部分的に「ちがい」がつくりだされるのです。


Diversityは「ちがい」を増やすこと

僕は基本的に、ダイバーシティというのは「ちがいを増やすこと」だと思っています。

di-verseというのは「別々に-向ける」ということですから、それぞれ別々のあり様であることができる、というのが本当の意味での多様性です。

先ほど述べたように、原理的には世界には「ちがい」しかありません。世界には「おなじ」は本来存在しない。ということは、そもそも世界はダイバーシティ的だ、ということです。それにもかかわらず、なぜわざわざダイバーシティを意識し、「ちがい」を増やさないといけないのでしょうか?

それは人がつい本来的な「個的ちがい」ではなく「概念的ちがい」で括ってものを捉えがちだからです。そして「概念的ちがい」は個体のちがいではなく「おなじ」と「ちがい」の「括り方」に基づくので、ここに「バイアス」が生まれます。


「内集団バイアス」と「外集団バイアス」

以前こんな記事を書いたのですが、

人間には「内集団バイアス」と「外集団バイアス」というのがあります。

内集団バイアス」とは他の集団と比較して自集団の能力を高く評価したりひいきする心理です。「内集団びいき」「身内びいき」とも言われます。

外集団バイアス」はその逆。自分たちの集団の「外」だと認識すると、その集団の能力を低く評価したり敵対視してしまいます。

これらのバイアスは一見真逆の心理のようにも見えるのですが、実は共通する論理に拠っているのではないか、と僕は思っています。

その論理とは「おなじ」という括り、です。

「内集団バイアス」においては、「身内びいき」と言われるように、能力やスキルの実態にかかわらず身内をつい高く評価する傾向があります。なので「内集団バイアス」は「身内に甘い」ように思えるのですが、しかし一方で、「内集団バイアス」には「黒い羊」効果というのもあるのです。

心理学では、"黒い羊"効果という現象が知られている。一匹の黒い羊が白い羊から受け入れられず、排除されるという聖書の故事にちなんでこの名がある。身内(内集団)の好ましくないメンバーは、外の集団の好ましくないメンバー以上に悪い評価を受けるという現象を指して、こう呼ぶ。

https://policy.doshisha.ac.jp/keyword/2016/0523.html

「内集団バイアス」は「身内に甘い」一方で「身内に厳しい」という面も持ち合わせている。ちょっと不思議に思えますね。

「内集団バイアス」というのが「甘い」と「厳しい」の両極に触れがちなのは、「同化の欲求」によると僕は考えています。「身内に甘い」のは能力や性質などの個体差をきちんと吟味せずとも「オレら最強」と集団の帰属によって同化し評価を歪曲するために起こります。そして一方で、「身内に厳しい」「黒い羊効果」もまた、「内集団」の「同化の欲求」故に起こります。「内集団」の「同化」を乱す「ちがい」=「黒い羊」を排除することで「内集団」の同質性が回復されるからです。(宗教や家庭の内集団においてしばしば「せっかん」が行われるのはまさにこうした「同化」です)


一方、「外集団バイアス」では、自分たちとは異なる集団に属する人たちを十把一絡げにしてしまう、という偏見が起こります。たとえば私たちはたとえば別の人種や生きものの個体の見た目のちがいを区別しづらくなります。自分-相手間の「概念的ちがい」の方がより強く意識され、結果として「個体のちがい」への意識が弱まるのです。

今回のウクライナの戦争でも「ロシア人」や「ロシア料理」という「括り」だけで排斥が起こりました。先の大戦時には「鬼畜米英」という言葉が使われましたが、「国」という属性でくくると、他国人に人間とも思わないような残酷な仕打ちまでが(それも「正義」の名のもとに)できてしまいます。

よほど注意しないと脳が手抜きをし、自分のグループ外の人たちをひとりひとり丁寧に判断せず、「あの人たち」とひとくくりにして悪いレッテルを貼ってしまう。

少し前に「国葬反対派」というのがTwitterのトレンドにあがりました。これも「外集団バイアス」の傾向でしょう。僕自身、国葬に対してはその決定プロセスを含めて反対の立場でしたが、賛成意見や反対意見にも色々な視点と幅広いグラデーションがあるはずです。しかし、これを「派」とまとめてしまうとそうした「ちがい」が見えなくなってしまうのです。


こうして「内集団」では「内集団」内での同一化が、「外集団」には「外集団」としての同一視が起こります。しかし、こちらの図でみるように、「内集団」/「外集団」という分け方をしたとしても、実際にはその中にもっと多様な色の属性があるのです。

「内集団」と「外集団」という「概念的ちがい」により、「個体のちがい」は捨象されてしまいます。「内集団バイアス」で自分たちを「白の集団」だと思いこむと「黒い羊」は排除され、「外集団バイアス」においては、別の色の人がいても「みんな黒」とみなされ「ちがい」が看過されてしまうのです。


どちらのバイアスにおいても成員それぞれの「個体のちがい」は尊重されず「概念的ちがい」が支配的になります。そしてこの結果「分断」が生まれます。


「ちがい」には「おなじ」を、「おなじ」には「ちがい」を。

多様性や「みんなちがってみんないい」という言葉がいわれる時にも、気をつけていないとこのような「概念的ちがい」と分断の罠に囚われてしまうことがあります。

「女性と男性はちがうから仕方ない」という意見には「男も女も一緒」というのと同じくらいダイバーシティが欠けています。なぜなら「男性」と「女性」のいずれかを「内集団」化して他方を「外集団」化し、「概念的ちがい」に基づいて他者を切り離し、その中の「個的なちがい」をみようとしないからです。

こうした分断を乗り越えるためには、

「ちがい」の中にも「おなじ」があり、「おなじ」の中にも「ちがい」がある

ということを意識する必要があるのではないでしょうか?

「ちがい」として「外集団」化された集団の中にも、自分たちと共通する感情や悩みを持って生きている人たちはいて、根っこの部分では共鳴できる要素があるかもしれません。国が違ったり右だ左だとか思想のちがいがあってもジェンダーのちがいがあっても、共鳴・共感できる部分はある。

他方で「内集団」の中にも色々な「ちがい」があります。たとえばパートナーや親子など「おなじ」家族であってもあり方や資質、やりたいことはそれぞれちがうのです。しかしそれが忘れられがちになると「うちの子に限って」と身内びいきしたり、「どうしてあなたはできないの!」と「黒い羊」にしてしまう。


「異化」

そう考えると、「内集団」であれ「外集団」であれ重要なのは「概念的ちがい」に囚われずに、その中に埋もれがちな「個体のちがい」を感じるセンシティビティではないでしょうか。

これはアート思考的にいえば「異化」の作用です。

「異化」とは美学用語であり、

異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie[1])は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。

というもので、ここにいう「知覚の「自動化」」が「概念的ちがい」の知覚です。たとえば人は、毎日何回も開け締めしている自宅のドアや駅の壁や天井をほとんど思い出すことができません。それは「ドア」や「壁」というのを概念的な「記号」としてしか認識をせず、その個体の多くの情報は実はスルーしているからです。

これは「脳の省力化」のためのとても便利な機能なのですが、これに慣れきってしまうと事物の機微を感じるセンシティビティが低下してしまいます。

アートはこうした概念的な「ちがい」や「おなじ」を超えて、「個的ちがい」に出会わせます。

異化とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためである。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。

ダイバーシティが「ちがい」を増やすことだとすると、それは究極的には「概念的ちがい」に囚われずに「個的ちがい」を捉えていくことであり、本来的な「ちがい」を取り戻すことだとも言えます。


「和」は「ちがい」と「おなじ」を含んで調和すること

和して同せず、という言葉があります。

この「和」は旧字体では「龢」と書いたそうです。左側の「龠」という部首は中国竹製の管楽器の象形文字です。

「和」とは「和音」の「和」ですが、「和音」は、実は「おなじ」音だけでは決してできません

「和音」を生み出すためには「ちがい」があることが前提なのです。ちがう音だからこそ和音ができる。

「和」はまた、ただ「ちがい」と決めつけて「分」けてしまうことでもありません。ちがう音だけれどもその中にどこか響き合うところがある、そうした「ちがい」と「おなじ」の二重写しのふるえの中に「和」はたち現れます。


ダイバーシティとは

「ちがい」の中に「おなじ」を見つけ、「おなじ」の中に「ちがい」を見出す

そうした絶え間ない努力にこそあるのではないでしょうか。



Voicyでツムラさんの #OneMoreChoiceにワーママはるさんこと尾石晴さんとの対談で参加させていただいています。「ちがいを知る」ことはダイバーシティを取り戻すことであり、括りや決めつけの閉塞感や我慢、その押し付けから解放されていくことだと思っています。


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