「文化の盗用」とは何か?について考えてみたー文化アイデンティティにまつわるトラブル
「文化の盗用」という言葉をよく見かけるようになりました。日経新聞の文化欄でも以下のように取り上げているので、少々ぼくなりの解釈を書いてみることにします。最初に結論を書けば、「文化アイデンティの低評価」がこのテーマの根幹にあります。したがって、知的財産権に関わることもありますが、政治的、経済的な側面と密接に関わってきます。本記事は文化欄に掲載されると同時に、政治・経済面でも紹介されるのが相応しいでしょう。
「文化の盗用」とは何か?「文化の盗用」という表現は適当か?
この言葉は英語のcultural appropriationの訳語として使われています。「盗用」というと一挙にネガティブなニュアンスですが、cultural appropriationの訳語として適しているかどうかは再考する必要があります。
例えば、英国のマンチェスターメトロポリタン大学でファッション文化史を教えるベンジャミン・ワイルド氏は、ぼくの質問に対して次のように話しています。
「第一に強調したいのは、いつの時代においても文化盗用は避けられないということです。異なった文化の異なった人たちとの交流のなかでは当然起きることです。特に1980年代以降に関心が寄せられるようになり、それがこの数年、ファッションの分野で一層顕在化してきました。私たちはメディアでcultural appropriationの記事を読むと、何か悪いことが起こったと考えてしまいがちです。しかしながら、私たちは異文化の要素を採用することと文化の盗用を区別する必要があると思います(ワイルド氏はcultural appropriationとcultural mis appropriationと表現した)。注意すべきは後者です」
「文化の盗用」は文化交流にある複数パターンの一つであると指摘しています。彼は米国・ノーザンアリゾナ大学のリチャード・ロジャーズ氏(文化人類学)の文化交流を4つのレベルー(1)交流(2) 支配(3 )悪用 (4 )文化融合ーを紹介し、これらのなかで、(2)と(3 )が文化盗用としてネガティブな範疇になる、と語っています。(1)と(4)は友好的で公平な文化交流になりますから、cultural appropriationの訳語は「異文化要素の採用」あたりがニュートラルで良いと思います。
上記の説明は本テーマを考えるに交通整理として役立つので、これを踏まえていくことにしましょう。
「盗用」と言われてしまう背景は何か?
「文化の盗用」とクレームがつく事象は、テキスタイル、ファッション、インテリア、音楽、言語など多岐に渡ります。上記の日経新聞の記事(上)にあるように、最近の事例ではファッション関係の「事件」がメディアにのりやすいです。先進国のファッション大手企業が新興国の文化要素を使ってソーシャルメディア上で叩かれる、というパターンです。
これには大きく2つの傾向があり、先進国の企業が採用する文化そのものを適切に理解しておらず、その文化要素をオリジナル文化に属する人たちが不愉快に思うことでクレームがおこるのが一つです。商品開発に関わりますね。言ってみれば、単なる文化無知に起因する類です。
もう一つは、販売促進上の設定ミスです。企業がある商品を売りたい市場において、市場の文化に「寄り添う」つもりであったのが、逆に反感を買うトラブルです。記事にもある、この3月におこったイタリアのヴァレンティノの日本市場向け動画の炎上はその例です。ローカリゼーションの失敗です。「あの動画は泉鏡花へのオマージュだった」と後になって説明しても、火消にはあまり役立ちません。なぜって、文化の盗用で問われるのは、発信者の意図ではなく、受け手の解釈にしかないからです。「いや、そういうつもりじゃなかった」「だって、ぼくにはそうとしか思えないんだ」との応酬を招いた場合、仮に前者が後者の意見を抑えたとしても、前者が「説き伏せた」とネガティブに第三者に見られるのがオチです。
この種のトラブルの背景には次のような事情があります。
第二次世界大戦後にさまざまな社会変化がおこり植民地時代は終焉する。どこの地域でも権利意識が強くなり不平等に敏感になります。海外旅行が大衆化し、世界が狭くなった1980年代、それらがより明確になり文化盗用が問題とされるようになります。
1990年代以降はインターネットの恩恵で、多数の間でアイデアやイメージなどを交換できるようになり、簡単に他文化を引用できるようになりました。異なる文化要素がもっている意味など分からなくても、好きならそれを取り込むだけ。これをファッションに取り入れ人々に攻撃され、ことの重大さが初めて明らかになる、という具合です。
「ファション産業の世界市場は200兆円周辺であり、その経済サイズから切迫したムードもうみやすいですね」(ワイルド氏)
政治風景が遠景になったり近景になったり
植民地時代はとっくの昔に終わったと思ったら、統治システムはなくなったものの経済・文化構造はあいかわらず宗主国と植民地の関係だったのではないか?との不満が、「盗用」という表現に表れています。これはこれでひとつ分かりやすい政治的風景です。2013年以降の米国のブラック・ライブズ・マター(BLM)の広がりと呼応します。
ただ、ちょっと考えてみてください。日本は欧州のどこかの国の植民地であったわけでもないのに、前述のようなヴァレンティノのような問題がおこったのです。欧州人は日本の文化をちっともわかっていない!という不満は、(文化的)植民地主義の一種の変型であるとも考えられます。
逆のシーンを想定すると分かりやすいはずです。日本の企業がヴァレンティノの例にあるように、欧州文化に対して無理解であった場合、欧州の人々はそれを叩くのではなく、「教養のない証で批判にも値しない」と無視するか嘲笑の対象となる場面が想定されるのです。
これは欧州の人たちが日本の文化に対して上位意識をもっているとの裏返しです。ユニバーサル文化としての(相対的に低下したといえども)欧州文化の存在感があり、その位置関係が日本の人にも何となくわかるから、ヴァレンティノの動画が癇に障るのでしょう。極めて複雑な心理把握を必要とします。
ワイルド氏の下記の背景説明にあるように、国際政治力学が近景におかれているのか、遠景におかれているのか、慎重に見極めていかないといけないですね。
「英仏などの宗主国が旧植民国への負債をどうにかすることは考えなければならない。しかも、服の生産はそうした地域に依存しています。もちろん、その構造と歴史的なマクロな流れが繋がっているわけでもありませんが、アイデンティティと絡んでくるのです」
どうすればトラブルを減らせるのか?
上記、ワイルド氏の説明にあるように、これは文化アイデンティの問題なのです。およそ、ある異文化要素が知的財産の保護のもとにあるとの理由ではなく、その文化に生きる人のプライドが傷つけられる、アイデンティティを切り崩されたとの側面が強いです。前回のぼくのCOMEMOの記事で、日経新聞ロンドンにいる赤川省吾編集委員がウェビナーで話されたことについて書きましたが、人権に絡んでくる話です。
ウェビナーで、赤川さんは日本の人たちが人権について弱いと思われていると紹介していました。
EUの外交関係者から「日本は安全保障ばかりに関心があり、人権問題では頼りにならない」、英国保守党のダンカンスミス元党首が「日本は人権問題でもリーダーシップを発揮して欲しい」と言われました。
そう、人権問題が政治のテーマとして環境などと並んで重要課題になってくると予想されるなか、文化の盗用にフォーカスが並行してあてられていることに注目すべきなのです。あれはあれ、これはこれ、じゃない。ウイグルの問題からファッションメーカーのサプライチェーンが打撃をうけているのを見て分かるように、人権問題が足元を掬いかねないテーマになっています。したがって、そのテーマを別の側面から映し出しているのが、文化の盗用トラブルの多発である、との認識が妥当なのです。
この認識が、このトラブルを減らしていくため、またはトラブルが生じたときのおさえになっていきます。スキルではなく、人権と異文化理解との次元での改善を図らないといけません。そして、これは個々人の自覚もさることながら、チームで対処していくのが良いです。そうすると 1)企業の組織の外に違った文化と分野の人たちが気楽に意見交換をする場を設ける 2)特にクリエイティブ分野(商品企画とコミュニケーションを担当するセクションの両方の)異文化接触の機会の大幅に増やす ことがアイデアとしてあがってきます。また、2)においては、異文化間における共通点探しよりも、相違点を真正面から認識することが強調されることです。異文化の平和教育では違った文化のなかにある共通要素の発見を重視しますが、生半可な「一緒だよね」が、文化の盗用においては墓穴を掘ります。
一般的にいってマーケティングやセールスのセクションの人は違った文化の人と日常的に接することが多く、他方、業務上必要なのにさほど異文化トレーニングされていないのがクリエイティブ分野の人たちです。自動車業界のように世界各地のデザインスタジオとコラボする経験が多いケースでは当てはまらないかもしれませんが、ファッションのようにクリエイティブ分野が本社に集中している場合にミスがおこりやすいです。
そして、繰り返しますが、違った文化の人たちのアイデンティティに触れることなので、1)の解釈の絶対数とバリエーションの数は、それなりのレベルでないと全体像が見えてきません。二桁は不要かもしれませんが、見識のある人たちが5-6人以上集まっているのが理想でしょう。
日本のビジネスパーソンが視野にいれるべきポイント
最後に2つ気づいたことをメモしておきます。
ちょっと、話が脇にそれますが、今年の3月、『人間主義的経営』という本が出版されました。イタリアの中部にあるファッションメーカー、ブルネッロクチネッリの創業者が書いた本の日本語版です。エルメスと同等と言われるブランド力がある年間700億円程度の企業ですが、下記の経営方針とその実行でも高く評価されています。
「人の尊厳を第一に優先する。創造性というのは他人から人として十分に敬意を払われた時に発揮されるものだから、尊厳が重視された企業は結果として事業の成功を導く」
この会社のことは2013年からぼくはフォローしており、創業者とも何度も話して記事にしてきました。上記の本の出版には関わっていませんが、本を読んだ多くの人から「すばらしい経営だ」「人の尊厳が第一にされる大切さが分かった」という感想を聞きました。
ぼくが不思議なのは、クチネッリを賞賛するような資質があるにもかかわらず、どうして人権という言葉に置き換わると一歩身を引いたような感じになるビジネスパーソンが多いのか?ということです。
そして、これだけ国連のSDGsやサステナビリティという言葉がビジネス界隈でも出回っていても、人権という言葉が視野から若干外れている。それで、赤川編集委員が解説するように「日本の人って人権が苦手」と見られてしまい、さまざまな国際的なシーンで存在感に欠けることになっています。どうしてそうなってしまうのか、よく考えるのがよいと思います。
二点目。西洋社会からは日本企業の活動が文化盗用とされにくいですが、中国やその他、アジア諸国からは叩かれる可能性が高いと自覚することです。文化に純度100%はありえないです。必ず他の文化との融合の結果、今の文化があります。
言うまでもないですが、日本の文化は中国大陸と朝鮮半島から流入したものが多く、それらをもとに日本独自のローカライズの成果を語るとき、「我々のオリジナルである」と主張すると、批判を受ける場合があります。
かつて日本の公的機関がミラノで漆を展示しながらオリジナリティを宣伝していたことがあります。しかし、数年して韓国の公的機関がやはり漆を展示したとき、イタリア人の友人が日本の展示の記憶をもとに日本の説明に疑いをもってことがあります。当然、その経過を知っている韓国の人は、同様の感想をもったはずです。
文化の盗用と言われる危険性は、どこにでもあると心得ることです。
*写真はサッカーの欧州選手権2020でイタリアが優勝したときのミラノ市内の様子©Ken Anzai