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欧州動向で「人権」「脱植民地」が注目すべき点ー「安全保障」「環境」だけ見ていると話が通じなくなる。

7月8日、欧州議会は来年開催の北京五輪の招待拒否の決議をしました。

欧州議会は8日、2022年の北京冬季五輪への参加について、中国側が香港やウイグルなどでの人権問題で状況を改善する姿勢を示さない限り、EU機関や加盟国に政府代表や外交官が招待に応じないよう求める決議を賛成多数で可決した。人権問題に絡み、EUは中国と大筋合意した投資協定の批准手続きを事実上停止するなど、関係悪化が続いている。

民主主義体制と対峙する「政府の強権化」は、中国だけでなく世界各国で多く目につくようになりました。ハンガリーもそうです。上記と同じく、欧州議会はハンガリーの反LGBT法に対してもNOを突きつけています。

欧州議会は8日、ハンガリーのLGBT(性的少数者)の権利を規制する新法が、欧州連合(EU)の法令に反しているとして非難する決議を賛成多数で可決した。ハンガリー側は反発している。問題になったのはハンガリーで6月中旬に成立した法律。学校教育や映画、広告などで18歳未満に同性愛や性転換を伝えたり、議論したりするのを制限する内容だ。

これらの例をみると分かるように、強権化は民主主義を脅かし、更に加えれば人権を脅かしています。昨年前半、パンデミックへの立ち向かい方として、「強い政府」への人々の期待と危惧の両方が可視化されましたが、危惧すべき対象と問題がさらにはっきりとしてきました。

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同日、日経ヨーロッパが主催した「ドイツ総選挙とこれからの欧州政治・経済の行方」と題するウェビナーにおいて、赤川省吾編集委員が次のような内容を語っていました。

この夏以降、欧州は選挙ラッシュである。9月ドイツの議会選、来年1月イタリアの大統領選、4月フランスの大統領選、春にはハンガリーの議会選を控えている。そしてドイツのポストメルケル政権では「環境」「人権」「基幹政策」の3つが課題になる。

これらの政治日程が今後の民主主義国家(EU、米国、英国、カナダ)と強権国家(ロシア、ベラルーシ、北朝鮮、中国、ミャンマー)の関係を左右するだろうが、ポイントとなる項目は安全保障・経済・価値観の対立である。その流れで欧州はかつての植民地主義の清算に注力していくのが明らかだ。

特に日本の人たちは人権や価値観の領域を苦手としていることに危惧を覚える。

今回は、以上についてぼくなりの経験や考えをメモしていきます。

ローカル主義の広まりで気がついたこと

先日、ハンガリーのある企業のCEOと話していて、なるほど、と思ったことがあります。その企業はローカル文化を重視した製品をつくり、生産の70%はハンガリー国内で行っています。設立しておよそ10年です。海外市場に積極的に打って出ている評価を高めつつある企業です。

ぼくは「おたくの会社のサイトやサステナビリティレポートをみると、伝統、歴史、文化遺産といったローカルを強調する企業が使う言葉を使っていない。それはなぜか?」と聞いたのです。

社長は「我々はそうしたよくある言葉を超越する世界観を目指しているが、ひとつに共産主義国家であった時代を肯定したくないとの意図もある」と答えたのです。

テクノロジー主体の領域を除けば、ビジネスの世界で均一的なグローバリゼーション信奉は既に過去のものになりつつあり、殊にこの10年近く、ローカルがキーワードになっています。ローカルというサイズ、ローカルの地域文化、サプライチェーンの短縮化、いくつもの点からローカルが再評価を受けています。

その際に必然的に出てくるのがローカル文化間の競争です。「我々のこの文化遺産に関する歴史は長く、他地域の類似の遺産のもとになっている」というような起源の時期を競います。それが前述のハンガリーの社長の言葉にみるように、土俵を変えていく戦略が「過去を清算したいローカル」では優先されているわけです。ローカル主義でも多様な表現をとらざるをえない事情があるのです。

植民地主義の過去の清算とは何か?

最近、植民地主義や脱植民地主義という言葉をよく聞きますが、「そういう言葉は世界史の教科書にあった半世紀前の言葉では?」と思う人もいるでしょう。しかし、昨年あたりから急速な勢いで使われています。

米国でのブラック・ライブズ・マター(BLM)運動がヨーロッパに移ったとも赤川編集委員は以下の記事で書いていますが、当然のことながら、2015年のヨーロッパの難民危機という近くの過去とも重なっています。

多文化主義を基本としてきたヨーロッパの政策が壁にあきらかにぶち当たった、とぼくが深く意識したのは、2009年のスイスの国民投票の結果でした。イスラム教の教会の尖塔の新たな建設を禁じることに賛成する国民の方が多かったのです。「私たちの風景にイスラム教のモノが可視化されるのは困る」と思う人の意見が通り、英国のジャーナリストであるダグラス・マレーが『欧州の自死』で記したように、難民危機を境に、頭では理解するが身体感覚として、あるいは経済的動機から多様な文化の同居を確信をもって支持できない人が増えていきます。

そこにもう一つのアングルから、つまりはBLMと他地域での反民主主義的な動きが目立ちはじめ、ヨーロッパ自身が率先して人権についてもの言える環境を作っていかなくてはならないとの展開が進んでいます。多文化主義が奴隷制や植民地制の「体の良い修正版」でないか?という疑いを明確に否定できなくてはいけないのです。

しかも、トランプ政権が混乱をみせたように、米国もあまり偉そうなことは言えないと他国の人々はみているので、ヨーロッパは言ってみれば「身ぎれいになる」努力をみせないといけません。

ナチスがユダヤ人に対して行ったこと、東欧の旧共産圏での圧政、植民地時代の「不都合な事実」などに真正面から向き合い、それらを清算するのがテーマになります。

"cultural appropriation"(異文化要素の採用)への感度が求められるわけ

脱植民地という言葉とともにcultural appropriationとの言葉も多用されます。日本語で「文化の盗用」と訳されることが多いです。政治的・経済的・文化的に優位にある国の企業などが、それらで劣勢の文化圏にある要素をビジネス的利益のために利用することを指します。例えば、欧州のファッション企業がアフリカや中南米、あるいは中央アジアのデザインを使った場合にこのようなクレームがつけられます。

ただ、「文化の盗用」という表現は誤解を生みやすいので「異文化要素の採用」としたいです。その理由を知るに、英国のマンチェスター・メトロポリタン大学でファッション文化史を教えるベンジャミン・ワイルド氏にぼくがインタビューした内容を紹介しておきます。

「第一に強調したいのは、いつの時代においても異なる文化の採用は避けられないということです。異なった文化の異なった人たちとの交流のなかでは当然起きることです。特に1980年代以降に関心が寄せられるようになり、それがこの数年、ファッションの分野で一層顕在化してきました。私たちはメディアでcultural appropriationの記事を読むと、何か悪いことが起こったと考えてしまいがちです。しかしながら、私たちは異文化の要素を採用することと文化の盗用を区別する必要があると思います」(ワイルド氏)

(彼の説明によれば、cultural appropriation=異文化要素の採用とcultural mis appropriation=文化盗用と表現の2つがあり、注意すべきは後者)

つまりcultural appropriationという指摘が多発しているのは、既に宗主国から植民地が独立したにもかかわらず、その後、何十年間にもわたってシステムから文化意識に至るまで、完全に過去の遺物となっていないとの現実が浮き彫りにされたか、旧植民地側の人間もソーシャルメディアの普及で声をあげやすくなったからです。

「クリエイティブでイノベーティブであるためには、異なる文化の融合が必要」とよく聞くセリフも一呼吸おかないといけない、ということになります。それがダメなのでなく、自分のなかに無意識の上から目線がないか考えないといけないのです。

そして、メッセージの発信者の想いではなく、相対的に劣勢にある文化圏の人が受信者としてみるメッセージへの解釈が一番の鍵であることは常に肝に銘じる・・・これがすべてです。

サステナビリティが環境だけを指していると思っていたら・・・

サステナビリティという言葉がスカンジナビア諸国では地球環境を大きな動機とし、南欧諸国では美味しいものを食べ続ける、美しい景色を失いたくないといった審美性に関わることが最初の動機として強い、という側面があります。他の欧州諸国に先駆けてイタリアで環境に関する最初の法律ができたのは1920年代で、それは自然環境だけでなく景観美や文化遺産も対象にしたものでした。このようにサステナビリティの動機は文化圏によって異なります。

そして、今生じている現象は、サステナビリティとは環境だけでなくLGBTや社会的に弱い立場を含むインクルーシブをカバーするものである、という認識がじょじょに広まっていることです。そう、人権の話です。すなわち、脱植民地の文脈とサステナビリティの文脈、それら両方から人権に行き着きます。

ここでふと思い出します。欧州委員会のイノベーション政策の審議会の委員であり、ストックホルム経済大でイノベーションやリーダーシップを教えるロベルト・ベルガンティ氏が話してくれたことです。

「2019年までのイノベーション政策はエンジニアや科学者が顔になっていました。しかし2020年からはゲームチェンジャーとしての女性や移民の人たちが顔なのです。テクロジーもさることながら、市民がリードすることがイノベーションに鍵であると舵をきったのです」

彼は以下の2つの三角形を示しながら、「左が米国型のデザインの考えであり、20世紀型のビジネスのあり方と言えたが、右は欧州型のデザインの考えであり、21世紀型のビジネスです。左は人々がビジネスとテクノロジーに奉仕するが、右では人々を目標にテクノロジーとビジネスが貢献するのです」と説明します。

2つの三角形

ぼくは、この2つの三角形をこの1年半以上、何度も記事や講演で言及してきましたが、本稿でより背景に突っ込んだことになります。少しはマシに理解されるようになっているだろうか・・・一歩一歩、何度でも繰り返し話していくつもりです。

写真はミラノのPride©Ken Anzai


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