「基礎」という言葉を解体!
「何ごとも基礎だ」と散々言われてきました。
AIと人間はどう付き合うのが良いのかが盛んに議論されますが、その議論においても「人間としての基礎力は?」があらゆるアングルから問われます。そのとき、「人間は考える葦である」が大前提になっていることが多いです。そして、真っ暗闇のなかを歩んでいくが如く、自らをさらに追い詰めている・・・。
そこで、今回は「基礎」について、ちょっと思いつくままに書いてみましょう。
子どものピアノの演奏にみる技術評価の位置
さて、まったく、意外なところから玉を出します。
ぼくの奥さんは、イタリアの子どもたちにピアノを教えてきました。イタリアに住む前は日本でも教えていました。そこで、2つの文化の比較をする際、このピアノの演奏をどう教えるか?というのが、2人の間でよく話題になってきました。
ざっくりいうと、イタリアの子はテクニックがイマイチであっても、それらしい世界を表現するのが得意な子が多いです。ショパンなら実にショパンらしい世界をつくる。一方、日本の子は反対です。楽譜通りに上手に弾くのですが、世界を見せるのが苦手です。
この違いについては、発表会でぼくも何度も聞いていたので、事実として異論はないです。でも、なぜ?が長い間、ひっかかっていました。
たくさん、その理由が考えられますが、そのなかでも大きな割合を占めるのが、「日本の先生は我慢できない」のではないかと思います。「基礎的な技術もなくて、なにが世界を示したいだ?!」とかなり早いタイミングで子どもに言ってしまう。
それに対して、イタリアでの教え方では「君の世界をつくってみなさい」を優先し、子どもの表現したいとの意欲が高まるのをひたすら待とうとします。技術の習得も大事だけど、それを最優先しないというわけです。
演奏技術が目に見えるかたちで向上するのは先生の高評価に繋がりやすいので、世界をつくるのを待つのはしんどいです。でも、親が楽器の演奏とは、そういうものだと思っていれば、さほどプレッシャーはないのです、実は。
「基礎が大事だ!」は還元主義である
学校や学びのあり方に根本から問うた、孫泰蔵さんの『冒険の書』に次のような記述があります。
「基礎が大事」はもう崩しがたい「基礎的(!)認識」となっていますが、この認識自体に孫泰蔵さんは疑問を投げかけるのです。
そして、あらゆることを要素分解して理解しようとする「還元主義」を批判します。世界は多くの要素が複雑に絡み合っているので、本来、どれが基礎かとの確定は幻想にすぎないにも関わらず、それが動かぬ事実であるかのように振る舞うから批判の対象になります。
孫泰蔵さんは次のようにも書きます。
「基礎」をミニマリズム的なものと表現しています。
ただ、この「基礎」をある枠組みの規定要素として扱うとつまらない対象になりがちですが、自らの行動様式や自ら打ち立てたプログラムに不可欠なものとして自主的に採用するのであれば、決して退屈に終わらない、と孫泰蔵さんは注釈をつけています。
先の子どものピアノの練習の話に戻れば、自分の表現したい世界が見られれば、そのなかで自ずと技術も磨かれるはず、という順序になります。
「基礎的な技術があって、はじめて世界が表現できる」とよく聞くセリフは、それなりのレベルの人が向上を目指す場合の指針であり、初心者に適用すべきそれではない、ということです。
知性主義に走り過ぎない?
「基礎」の重視が有効なのは、一部の真実です。しかし、「基礎」を出発点に世界は多数の要素で構成されており、「基礎」をおさえることなく前進は不可能だと思いこんでいるとすると大きな誤解である、となります。
「基礎」の重要視は還元主義と紐づき、それは一見、知的分析をベースにした賢いアプローチに見えながら、実は危うい点が多々あります。
孫泰蔵さんはその脆弱性を上述のように説明しているわけですが、「知性」や「クリエティブ」という人間の特徴も、同様に、人間のあり方を還元主義でみた結果ともいえます。
これが冒頭のAIの話とも繋がってきます。
そして、ここから文化論が絡んでくるのですが、「理性」あるいは「科学的合理性」といったことが、西洋文化と文明を推進したと認識されています。
ここで、「なぜ?」がでてきます。
極めて還元主義への信仰が強いー何かあれば、要素分解して因果関係を探れ!という傾向が強いーヨーロッパにおいて、なぜ、音楽の演奏教育において「基礎」よりも「世界観の創造」を優先させるのでしょうか?
(実は、ぼくの経験では、かなり広い範囲、つまり音楽以外の分野でも、同様のパターンをみます)
全体観の「命綱」が後ろから背中を引っ張っている
ディテールを拡大鏡的にとらえると「基礎」に見えてしまうとの錯覚に陥る。ここに分岐点がなかろうか、と思います。
ぼくが語れることは限られていますが、ヨーロッパ人の間で世界観を大事にすると同時に、「基礎過信に走らない」というストッパーが強く作用する場面を多くみてきました。
いわゆるヒューマニズムとか、そういうレベルでの話ではなく、ディテールを眺めるときの感覚に依っているとしか言いようがない感じがします。ディテール要素に近寄るとき、全体観の「命綱」が後ろから背中を引っ張っているとでも言うような・・・。
つまり、「木ではなく森をみる」とか「全体を建築構造的に捉える」とヨーロッパ人の見方の傾向を示すフーレズはいくつかありますーだから、子どもも世界を見せる演奏が得意、との根拠にしがちー。
これは全体像の把握、またはヴィジョンへの拘りとの関係で引用されることが多いですが、細部とのバランスとして「こちらをウエイトをおく」のを身体的に標準装備しているとの印象がありますーいわゆる言語レベルではなく。
これがかろうじて、錯覚から覚醒しやすい条件をつくっているのではないか?とのぼくの仮説を導きます。
技術への強すぎる「信仰」もディテールへの拘り?
場面を変えます。
4月に開催されたミラノデザインウィークにおける(日本の)企業やデザイナーの出展をみながら、「やはり変わっていないなあ」と思うことがありました。
技術を全面にアピールしているところは世界観の提示に不足感があるのです。「そういう技術があるのは分かったけど、で、どうするの?」という疑問をおこさせてしまう。
これは単に「技術志向主義」と形容する以前の問題が隠れているかもしれないです。工芸分野の職人技術の過度な強調にも、共通した問題があるかもしれません。
「基礎」という言葉が縛るものの範囲と威力に存在感があり過ぎることと関係があるのではないか?と思い至るわけです。
「拡大鏡的ディテール」が技術志向を「基礎」として正当化し、それゆえに世界観の不足を問題視させにくい価値体系を作ってしまう。しかも、動的ではなく、静的な状況をベースとした価値体系との性質が強く、「基礎」はより動かしがたいものになり、ますます蛸壺に嵌る危険性がある・・・。
ヨーロッパの人もさまざまな蛸壺に嵌りながら、ひとつマシなのは、状況を動的にみているので、いったん蛸壺に嵌っても脱出するタイミングが早いということかも。
以上、週末の「基礎」解体作業に励む戯言と読んでもらっても構いませんが 笑。
(ちなみに、本稿は3月初めに書いた以下の記事の続編です)。
写真©Ken ANZAI