19世紀パリの万博と民藝運動 —時代の良心って何?
「時代の良心」という言い方をすることがあります。愚かな方向へ向かう多勢に対して抵抗する人というのも、その表現に近いです。
前回書いた「「世の中に〇〇は少ない」と思った時がすべてのはじまり。」で触れた20世紀前半に民藝運動をひっぱった柳宗悦、19世紀後半の英国でアーツアンドクラフツ運動をおこしたウイリアム・モリス。これらの2人は審美的な妥協を許さず、さながら「時代の良心」のようにも捉えられてきました。
彼らの対抗軸には産業資本が推し進める機械化があり、そこには低品質の量産品が溢れ、更に資本家と労働者の確執があったと指摘されるのですが、もちろん、その対立軸とされる人たちにものが見えなかったわけではないのです。
そこで他の視点を交えて「モリスと柳はどういう観点で時代の良心だったのか?」を考えてみようと、そのヒントに鹿島茂『パリ万国博覧会 サン=シモンの鉄の夢』を読んでみました。19世紀後半のフランスの政府のトップが産業をどのような意図で方向づけようとしたかを知るに最適です。
産業革命で先行した英国に追い付き追い抜けと知恵を絞りまくった結果、あらゆる機械のレベルが向上しただけでなく、美食文化、ワイン、ガラスのバカラ、バックのルイヴィトンなど生活用品に関わるフランスの神話がこの時期に成立するに至ったのです。
この本で気になる点をメモしていきます。
万国博覧会をひらきまくったパリ
パリ万国博覧会は1855年、1867年、1878年、1889年、1900年、1937年と開かれ、1851年の一回目の開催こそロンドンに譲ったものの、19世紀後半の万博の主役であったことは明らかです。エッフェル塔が1889年の万博のシンボルとして建てられたのは多くの人が知るところです。
政府の方針は、既に芸術作品の展示について十分な責務を果たしているので、実用工芸を注力していくべきとの論が根拠になっていましたーこれ、民藝の領域と重なりますね。そして、19世紀の観点に立たないと分からないのは、一部の貴族やブルジュワを除くと、一般の人々が自由に商品を見ることができなかったのです。見るとすれば、買うしかなかった―。
1798年、万博より半世紀前、国内博覧会がはじめて開かれます。
博覧会という場で気兼ねなく商品を見ることが可能になり、商品を眺めること自体が楽しい、との現実を発見します。広告といえば看板くらいのもので、それもそう目立つものではなかったーしかも、狭くて暗い店舗ではなく、明るい広々とした空間を散策するなかで、そうした経験ができたのです。それによって人々の消費意欲を刺激します。
そもそもにおいて良い商人とはできる限り高く売りつける商人を指し、大量に売る人を形容するわけではなかったのでした。それが博覧会開催を機に変わり始めるのです。
そして優秀な商品は審査会によって受賞をうけるとの制度の導入も、客観的な科学精神に対する信頼が国民の間に生まれつつあった証でした。
産業という宗教の誕生
このフランスの動きの創始者とも言うべき人間がサン・シモン(1760-1825)です。彼は現代社会の目標を生産、すなわち産業としました。
資本家が自らの欲望に従って利益をうめば、労働者も必然的に潤うとの主張を行い、エゴイズムは制御すべき対象ではなく、これを活用すべきとしました。
現実の社会はこの主張と真っ向から対立するので、彼は、自己の利益のほかに他人の利益をも産業活動の目的とするような博愛主義の確立に重心をおいていきますーキリスト教を現世的な目的のために適応させた新しいキリスト教を必要としたのです。
ナポレオン三世が産業者の後押しをした
産業者がブルジュワ階級から権力を奪い第一階級になるには、国王が「第一階級を産業者が形成するよう宣言する」とすればよい、とサン・シモンは一見非現実的な道筋を示しました。
だが、1851年のナポレオン三世のクー・デターによってこのシナリオがなんと現実化したのです。このシナリオの実現を推し進めたのが経済学者のミシェル・シュヴァリエ(1806 - 1879)です。彼はサン・シモン亡き後にできた「宗教化したサン・シモン主義」のグループに参加するなかで、産業ユートピアという理想に惹かれていきます。
1834年、シュヴァリエはアメリカに渡り産業社会のレベルの高さに圧倒されました。アメリカの土木作業従事者でさえも、フランスの中流ブルジュアジーよりも衣食住のいずれでも遥かに恵まれていたのです。
輸送インフラの整備、大量の原料の輸入と製品輸出、工場の機械化と労働の効率化が産業、金融、消費の発達を促していた現実を前にシュヴァリエは、フランスでの産業ユートピアの実現を実際に計画するようになります。
ここに降ってわいたのが、ナポレオン三世の権力奪取です。そして第二帝政としての力を見せつけるに国民の圧倒的支持を必要としたナポレオン三世の思惑と、産業ユートピアの実現の最適実行者としてナポレオン三世をみたシュヴァリエの思惑が一致するとの幸運に巡り合うのでした。
これがシュヴァリエがナポレオン三世の右腕ー経済政策の最高顧問ーとして活躍するようになった経緯と背景です。
パリの万国博覧会にむけて動き出す
シュヴァリエが抱いていたサン・シモン主義的な社会改造プランは次の3つの骨子から成っていました。
上記の1と2はほぼ道が拓けたが、手つかずだったのが3です。そこで頭に浮かんだのが万国博覧会の開催でした。1851年、ロンドンでの第一回万国博覧会を見学し、ロンドンの万博の強みと弱みを把握したのです。
鉄を大量に使用した産業機械の迫力、鉄とガラスを多用した会場、これらにシュヴァリエは「やられ」ました。誰もが、ここでの展示と会場に「宗教的」ともいえる畏怖を感じたのでした。カール・マルクスも同じように指摘しています。
シュヴァリエはイギリスの国力と先進性が表現されたロンドンの万博を賞賛し嫉妬する一方、ロンドンの万博には主導的な理念が欠けていると気づきます。ロンドンでは産業が狭く捉えられているために、農業、商業、絵画を締め出しているー産業の発展において、美術的なセンスの追求は欠かせないもののはずだ、と考えるのです。ここも今から見ると、その後のアーツアンドクラフツ運動や民藝運動の考え方に通じるものをもっていたのです。
ロンドンとパリの違いについて以下の説明があります。
「百科全書」の国らしい方向です。
インテリ文化人は「現在」の万博を嫌うものだ
結果、1855年のパリ万博は多くの不手際があったにも関わらず、フランスが産業力においてイギリスに引けを取らないことは証明されました。かつ、「万博で採用された、品質と価格における平等の原則は、フランス国民に高品質・低価格の製品を手に入れるには、何をすべきかを教えた。高関税を撤廃し自由貿易を促進」(145p)するが鍵である点です。
そのために必要な生産システムと労使関係について鹿島は次のような説明を加えています。
低価格とは言うまでもなく多くの人々の生活に行き渡る、との狙いに基づくものです。つまり、その哲学において、繰り返しますが、アーツアンドクラフツ運動や民藝運動と大きな乖離があったのだろうか?という疑問が、そう頓珍漢でもないような気がします。
そう思う理由が鹿島のあとがきにあります。1970年の大阪万博を澁澤龍彦が「万博を嫌悪」した一文を引用しながらの次の文章です。
未来を実現した場所など嘘くさいものに過ぎないと思う点において、インテリ文化人の同時代の万博の忌み嫌い方には共通するものがあるようです。これと表裏一体なものとして過去の手仕事への再評価があるとしたら、どうなんだろう?というのが、ぼくの現在の空想テーマになります。
下記の講座の内容をさらに挑戦的にもってこれるのではないか?と同時に考えています。
冒頭の写真©Ken Anzai