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「いいアート作品」ってなんだ?いい作品ととそうではない作品を分けるもの

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

僕は長野県立大の大学院で客員准教授としてアート思考の授業をもっています。
これは美術史とかアートそのものの授業ではなく、芸術家の価値の生み出し方を学び考察しつつ、イノベーションや社会の変革について考える実践型の授業なのですが、その中で「いいアート作品ってどういうもの?」というディスカッションをしたりします。

これ、学生たちのディスカッションが毎年面白いのですが、今年のディスカッションをみて改めて考えてみたことを書いてみます。


いいアート作品と他を分けるものは?

「いいアート作品とは何か?」というのは、非常に難しいテーマです。

まず「いい」というのは色んな軸がありますし、かなり曖昧です。倫理的に?経済的に?それとも巧拙?

漫画やネイルアートのようにどこまでが「アート」に含まれるのか、という問題もありますし、「作品」の定義としても、たとえばすごく感動した即興演奏は作品なのか、とか長く歌い継がれる民謡みたいなものは作品なのか?みたいなことも自明ではありません。


そもそも、一つの正解があるものでもないかもしれません。「いい作品」は人による。十人十色の好みがあるとも言えます。

しかしだからといって、全くの主観で普遍性がないかというとどうでしょうか。

感動を与えたり記憶に残る作品とそうでない作品を比較すると、絶対的な基準ではなくとも、そこに明確な質の差がある、と多くの人が感じるのではないでしょうか。だとすると「いいアート作品」をただ好みの問題と片付けてしまうのは勿体ないと思いますし、少なくとも議論する価値があると思います。

「いい作品」、時代を超えて残る作品とそうでないものを分ける要因は何なのか、そこになにか共通点はあるのか?


誰かの心を揺さぶる、触発の力

今年出た意見を少しご紹介します。

たとえば「誰か一人でもその心を揺さぶるものであれば、それはいい作品だと言えるのではないか」という意見。

また、アートの価値と経済的価値は必ずしもリンクしないため、高価な作品が必ずしもいい作品であるとは限らない、という議論もありました。

アートはビジネスはちがうと思うけれども、今はビジネスにおいても売上や利益が高いから「よいビジネス」というわけでもないし、社会にポジティブな影響をあたえるか、というのは両者共通にありそう。するとソーシャルインパクトを持つビジネスはアートと似ているかも、などなど。(「ビジネスとアート」についてはまた別の機会に書きたいとおもいます)

また、「ポジティブな社会への影響」という意味では、越後妻有地域の大地の芸術祭に行かれた学生がいて、その体験から、地域や社会との関わりや繋がりを生み出す作品は「よい作品」かも、という意見も出ました。


これらの意見からはアート作品の外部性というか、鑑賞者や他者に与える影響が重要な要素として浮かび上がってきます。そしてこの観点からいうと、アートは単にモノとして存在するだけでなく、それを受け取る人がいて初めて価値が生まれるという、いわゆる受容美学的な考え方にもつながります。

でも作品が届くにはタイミングもある?

さらに、アート史に残る作品と消えていく作品を比べた時にアート作品が「どう受け取られるか」が大事だとすると、それはタイミングによっても異なるのでは、という意見も出ました。

こうした時間軸でいうと、例えばゴッホについて、現在では彼は巨匠として広く認められていますが、生前は作品がほとんど売れなかったという話があって、これも、存命中には当時の社会ではまだ鑑賞者側やアートワールドの「受け取る準備」ができていなかった、とも解釈できます。受け手の関与が必要だとすれば、アートの価値は不変に決まるのではなく時間とともに可変なのです。

とりわけ近代以降、アートは既存の価値観を超える新しい価値を生み出すことを目指してきました。しかしその革新性が故に、作品が提示された時にそれを理解できる受け手がいなければ、作品は見過ごされたり黙殺されたりということも起こります。

ゴッホが生きている間に評価されなかったのは同時代の人々が彼の作品の真の価値に気づくことができなかったからかもしれませんが、没後に弟テオやその妻ヨハンナなどがゴッホの才能を信じ、彼の作品を伝えるために尽力し、後世において「受け取り手」を耕していったわけです。

僕は基本的にアートというのものを作者からのメッセージのエンコード→デコードのモデルではなく、両者のコミュニケーションによって立ち現れる、中動態的なものだと考えています。

作品はつくられた時点で作品なのではなく、鑑賞者との出会いによって事後的・遡及的に「作品に成る」のです。

また、作品はモノとしての存在というよりも、その上に鑑賞者の解釈やコミュニケーションが交錯し積み上げられていく「場」のようなものとして捉えています。



受け取り手がいなくても作品?

そこからもう一つの議論になりました。

だとすると、誰も鑑賞者がいない時、もしくは鑑賞者を想定していない作品は、アート作品と言えるの?という問いです。

このテーマについては、僕の書いた二冊目のアート思考ドリルでも触れていますが、
(ちなみに今リンクを貼ろうと思ってAmazonを調べたら0円と書いててびっくりしたのですが、知らぬ間にKindle Unlimitedに入っていたようなのでUnlimitedの方はどうぞ…)

たとえばヘンリー・ダーガーのようなケースがあります。彼は生涯、自宅に閉じこもり、誰に見せるつもりもなく創作活動を行っていました。亡くなった後、その作品の価値が認められ、今では美術館に展示もされますし、マーケットで取引もされるアーティストです。ゴッホが見てほしくても受け取ってもらえなかったのとも異なり、ダーガーは作品を人に見せる意図を持たずに創作していたわけです。

こうした「鑑賞(への意図)の欠如」は、アウトサイダー・アートにおいて作品が比較的価値が低いものと見られてきたこととも関連しているでしょう。しかし、作者自身の創造の瞬間に受け取り手がいなかったとしても、時間が経ってそれが見つかれば価値があるものになる、ということは可能です。

こうしたことはアートの世界だけではないかもしれません。起業家やイノベイターは最初は理解されないことが多く、社会に認められるまでに時間がかかることは少なくありません。早すぎたプロダクトが、ゴッホのように存命中には間に合わず、死後に価値が認められることもあります。


「フォロワー」による価値化

アート思考は、ロジカル思考やデザイン思考とはちがいニーズや課題を起点にしません。すると、ほとんどの人に理解されない、ということが起こります。

ビジネスにおいてはなおのこと、社会に届かなければ拡大もしないしそもそも続けていけませんから、起業家は往々にして「ほとんどの人が理解できないことをどう伝えるか」というジレンマに悩むことになります。

あるいは起業家でなくとも、組織内で理解がされない。こうしたことを踏まえて、授業では、デレクシヴァーズのTEDの動画もみてもらいます。
(2分ちょっとなので見たことが無い方はぜひ読み進める前にみてください)


この中で指摘されている重要なことの一つは、「リーダーは一人ではリーダーではない」ということです。

裸で踊る男は、一緒に踊る人が来なければただの変人。いずれ疲れて踊るのをやめてしまったかもしれません。しかし2人目に、最初のフォロワーが現れることで、彼は事後的・遡及的に「リーダー」になれたわけです。


デレクシヴァーズはリーダーが過大に評価されていることに警鐘を鳴らし、フォロワーの重要性を指摘します。

アートにおいても、「作者」が過大に評価されすぎかもしれません。作者主義は近代に極大になり今はやや下がって来てはいますが、それでもやはり「作者」は特権的存在としてみられているところはあるでしょう。

しかし先程の動画と同じく、アーティストも単に自己表現を行っただけでは「裸で踊る変人」で終わったかもしれないのです。その作品の価値を認める「受け取り手」が表れることで初めて、その表現は「アート作品」となり、そのつくり手は「芸術家」としての地位を確立します。

この議論から改めて思うことは、アートは単なる自己表現ではなく、社会的な相互作用でありコミュニケーションである、ということです。アート作品は、作者だけではなく、受け手の存在によってもその価値が形成されるのです。

「いい作品とはなにか?」「いい作品とそうでない作品はなぜ分かれるのか?」「どうやったらいい作品をつくれるのか?」という問いに対しては、作品単体で判断することはできず、それを受け取る鑑賞者や社会との作用も変数として、そこに生まれる力学の束として捉える必要があるでしょう。

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