「創造性を育む子育て」あるいは「子育ての創造性」を中動態から読み解いてみる。
お疲れさまです。uni'que若宮です。
先週の日曜日にこんなトークイベントが開催されました。
Voicyパーソナリティであるワーママはるさんと近藤弥生子さんと、そしてそれぞれが2人の子をもつ親として子育てを考えている3人で「子育て」についてお話ししませんか、とお声がけして実現した企画だったのですが、これがとても学びの多い時間でした。(なんと申し込み1,059人!改めて子育てへの関心(悩み?)の大きさを感じました)
全体を通じての感想は↓でもお話ししたのですが、
トーク後にちょっと思考したことがあり、今日は「中動態の子育て」について書いてみたいと思います。
一見真逆?でもつながってる?子育てにまつわる2つの問い
イベントではまず、各自10minずつ自己紹介と子育てにまつわる想いをお話ししました。「なんか似てるようなことを3人とも言ってるなって」とはるさんもおっしゃっていたのですが、意識していることや課題感に想像以上に共通点があり、でもその上で、それぞれのアプローチや試行錯誤・工夫が知れて、登壇者ながら共感と学びがとても多いイベントでした。
そんな共感ビシバシ!のお二人のお話ですが、一見反対に思えるようなことをおっしゃっていたのが面白いなあと思いました。といっても矛盾する感じはなく、僕の中では「つながっているなあ」と直感的に思ったのですが、それがどういう風につながっているのかがトーク中ははっきりとわかりませんでした。
その「一見反対に見えること」とは以下の二点です。
はるさんが意識しているという「万能感を育てない」というのは、子供が「何でも出来る」と思わないようにする、ということ。現代に生きていると「人間の力が万能」だとおもってしまいがちだけど、そうではない。自然や神に対する畏怖や尊敬など、自分の意思を超えた・自分にはコントロールできないものがある。自分には見えないものがあるけど、それらによって社会は回っている、ということ、最大限努力はするけど自分ひとりの力では努力しても敵わないこともあることを知っていてほしい、と。
一方弥生子さんからは、オードリー・タンさんの子供の頃のエピソードの紹介があり、子供が「何もできることがない」という「無力感」を感じないように、自分の感情や思いを受け止めてもらえることが大事、というお話がありました。感じたことを「否定されない」ことで、初めて外の世界とコミュニケーションが取れるようになる、と。
それぞれ文脈がちがうので必ずしも背反しているわけではないのですが、「一見」ちょっと反対のように思えませんか?
一般に、子供の創造性や自主性について話す時、「自己効力感が大事」と言われますよね。子供が「私は何でもできる!」と思えたほうがよさそうに思えたり、そのために褒めて伸ばす方がいい、という気もするのですが、はるさんがあえて「万能感を育てない」を心がけているっていうのが面白いなーと。
もう一点は、
これも、一見反対のようにも思えます。はるさんのおっしゃることはとても大事だと思っていて、子育てにおいて「あなた達のために我慢している」とか「あなた達のために諦めている」と思ったり思わせてはいけない。わたしはわたしは自身の人生のために、自分の人生を大事にしている姿をみせる。「子供のために」と言うと責任を子供に転嫁することにもなるし、親が自分のために人生を犠牲にしているってきっと悲しいですよね。子育ては親の自己犠牲ではない、親も自分の人生を生きていい。
一方で、弥生子さんのお話にも大変共感します。これはオードリータンさんが小学校6年生の時、学校でオードリーさんの通学について先生と親が話すのを聞いた後に発したことばです(その後オードリーさん一家は不登校を選ぶのですが)。
教育を語っているのに子供が不在になっている、こうしたことも起こりがちな気がします。。。ちゃんと意識してしないと、つい親や大人の視点や都合から教育を考えてしまう。
親のため、子供のため。子育てや教育は果たして誰のためのものでしょうか?
「中動態の子育て」
「子供に万能感をもたせない/無力感をもたせないように肯定する」ということや「子育てや教育は親のため/子供のため」ということは(表層的には一見)矛盾するようにも思えます。どっちかじゃなくてどっちも大事だよね、ケースバイケースだしバランスとか中庸の問題だよね、とお茶を濁すこともできるのですが、せっかくなのでもうちょっとだけ突っ込んで考えてみたいと思います。
なぜどちらも大事なのか?
それを考えているうち、もしかしたら「子育ては中動態」と考えると、矛盾しないどころかむしろ双方あるからこそ成り立つ相補的なものとして考えられるかもしれない、という気がしてきました。
「中動態」についてはアート思考や教育、コミュニティの観点から重要な概念としてときどき紹介していますが、
「中動態」とは古代ギリシャやサンスクリット語などにみられる、能動態でも受動態でもない「第三の態」です。
「第三の態」とか「能動態でも受動態でもない」と言うと中動態が特殊な態のように思えたり後からできたような印象もありますが、実はそうではありません。
今回は「中動態」の概念史が主眼ではないので、興味をもたれたら國分功一郎さんの『中動態の世界』を是非読んでみていただきたいのですが(とてもわかりやすく感動的な名著です)、むしろ「中動態」が先にあり、<近代的な主体の意思>が持ち込まれることで「能動態」とか「受動態」の方が分離的に生まれたようなところがあります。
中動態をつかって表現される動詞は多岐にわたりますが、ざっくりいうと以下の3つの意味性にまとめることが出来る気がします。
「万能感/効力感」と「①無人称的」中動態
まず、万能感と効力感の対立(これが対立ではないことを示そうとしているのですが)は、「無人称的」という中動態のあり方から考えることができそうです。
無人称的中動態というのは、たとえば「It occurs to me that…」みたいなことなのですが、たとえばなにかを「思いつく」という事態には自分の意図ではどうにもならないものが含まれています。人はアイディアを意図的に「思いつこう」としても思いつくことはできません。もちろん新しいアイディアのために思考することはできますが、「思いつく」という事態は意のままになることではなく、ふとした時に「思いつく」のです。「降ってくる」とか「降りてくる」と言ったりもしますよね。
「思いつく」は主体の中で起こることですが、主体の意思に還元できないものです。芸術家は自分の創造性が自分の意図を超えたものであることを知っていますが、創造性というのはしばしば自分の意思を超えたものです。
「万能感」とはこうした自分の限界を欺瞞することです。人間の意図や能力を超えたものがある、というのはスピリチュアルな意味でなく現実です。人間はしばしば勘違いをしますが、世界も自然も人間が意のままにできるわけではありません。「病気になりたくない」「死にたくない」といくら思っても人は自分の中の自然ですらコントールできないのです。
と言っても、これはただちに主体の意思や意図を否定するものではありません。運命論や決定論は「自由意志」を否定し無力感や厭世主義に通じることがありますが、「意のままにできない」からと言って「なにもできるものがない」ということではないのです。むしろ人は社会や世界に対して働きかけることができるし、それによって「意のままにできない」ものとコラボレートすることができます。
弥生子さんのおっしゃるように、子供が「なにもできるものがない」と思ってしまうと「無力感」に陥ります。
「自己効力感」において大事なのは「意のままにできる」ことではなく、「意のままにならない」外界とコミュニケーションするための「結び目」です。この「結び目」が上手く結べないと「無敵の人」になってしまいます。「黒子のバスケ事件」の陳述を引きます。
この文章が言っているのは、弥生子さんがおっしゃる「誰かに自分の感じたことを肯定してもらうのはとても大切なこと」そのものです。「もしずっと否定されていたら、私は外の世界とコミュニケーションが取れなくなっていたでしょう」というオードリー・タンさんの言葉通り、人間にとって「最初に出会う他者=親」による「肯定」は、子供が「他者とのつながり」や社会との「結び目」をつくるために重要なのです。
自分が社会とつながっていると感じられ、そして社会と(無意味でなく)自分が影響しあっているという感覚。しかしそれは「意のまま」になるということともちがいます。社会とつながるということはむしろ、「意のままにならない」ものに出会っていくことかもしれません。
西欧的な能動/受動の二文法に慣れている現代では、教育や子育てでも「能動的に」「主体的に」ということが言われています。
これ自体は素晴らしいことですが、しかし行き過ぎると高慢や自己嫌悪を引き起こすかもしれません。全てを「意思」として主体に帰してしまうことはものすごい重圧にもなります。自分の成功も失敗も「自分のせい」だからです。しかし、マイケル・サンデル氏が『実力も運のうち』で明らかにしたように、進路や能力ですら、実は自分の意思によるものではありません。(コロナウイルスに感染しても心配されるより先に「自己責任」と叩かれる社会は意思が過大評価された息苦しい社会に僕には思えます)
世界には、人生には、「どうにもならないこと」がある。それを知っておけることは成功による高慢や失敗による自己嫌悪に陥ることなく、「意思」のくびきから解放されることでもあります。そしてそれがあるからこそ、生きていくことは面白く、新しい発見や出会いがあるのです。芸術家が知っているように「どうにもならないこと」は意思を阻害する「敵」ではなくむしろ創造性の源であり、そうした歓喜の瞬間はしばしば意思を超えたところに訪れます。「万能感」はそうした創造の奇跡を塞いでしまうことにもなりかねません。
「子供のため/親のため」と「②相互作用的」中動態
次に、育児や教育は親のためなのか、子供のためなのか、という問題です。
これには中動態の「相互作用的」なあり方が参考になります。「口づけする」とか「恋に落ちる」のような動詞です。
こうした動詞は一方的な意思で成立するものではありません。口づけや恋はどちらか一方の意思ではできず、お互いの気持ちが響き合い近づいた先に、双方の出会いの中で成り立つ事態です。
「I see birds.」という言葉は「私には鳥がみえる」と訳されます。これもかたちとしては「私」が主語になっていますが、私の意思だけでできることではありません。私が鳥を「見えよう」と意思しても、鳥が視界に入ってこなければ鳥は見えません。しかし逆に鳥が飛んできても、私が気づかなければ「見える」ことはできません。seeにおいては私と鳥のどちらもが主体であり、そこにはある「出会い」が必要なのです。
同じように子育てでも、「親が子供を育てている」と能動態で思いすぎると、子供はその意思の「対象」になってしまいます(育て方を間違った、というのは親の意思の肥大化です。子供は子供が主体として「育つ」のですから)。しかし一方で「子供」だけが主体で「親」がそのためにただ尽くす、というのもちがいますよね。私が鳥と出会うことによって「見える」ように、「子育て」は親と子のどちらかが「主体」とか「主役」というのではなく、双方のそれぞれのあり方の「出会い」であり、そうあることでこそ、お互いにお互いの人生に影響し合えるのではないでしょうか。
「共に変化する子育て」と「③内在原因的」中動態
「無人称的」に、「世界とのつながり」をもってアンコントローラブルなものと出会い、コラボレーションしていくこと。
「相互作用的」に、どちらかに合わせるのではなくお互いに一つの存在として出会い、影響し合うこと。
「中動態の子育て」について述べてきましたが、中動態にはもう一つ、「③内在原因的」なあり方があります。
「内在原因」とは、「外在原因」の反対。たとえば「私は彼の髪を切った」というのは外在原因的であり、能動態で表現されます。
これに対し「私は私の髪を切った」というのは中動態で表現されます。ちがいはなにか、というとその行為の目的が自分の外にあるか、自分の内にあるか、ということです。
このことから、中動態には「主体の変化」という契機が含まれています。誰かの髪を切っても自分は変化しませんが、自分の髪を切ると自分が変化しますよね。
ドイツ語には「再帰代名詞」というのがありますが、「変わる」を「sich ändern(直訳すると自分自身を変える)」と言います。これは内的原因的な中動態にちかい感覚です。自分自身が変化する、その変化の原因は外部にあるわけではありません。内的な力で自ら変化していくものです。
「子育て」もまた、変わっていくものではないでしょうか。そしてそれはすでに見たように、意図してできることではなく、またどちらか一方の意図にだけよるものでもありません。しかしまた、誰かによって変化させられるのでもなく、子育てを通じて内的に変わっていこうとする行為でもあります。
今回のイベントは「創造性を育む子育て」というタイトルがつけられていました。しかし、「思い通りにならない」世界の中で共に悩み、お互いに影響し合いながら、それ自体変化しアップデートしていく正解のない実験として、実は「子育て」自体が「創造性」そのものなのかも知れません。
そしてそうした子育てそのものの「創造性」を失わないために、親も子も自分の「思い通り」にしようとせず、どちらかに合わせ自分を犠牲にすることなく・しかしお互いを思いながら、共に試行錯誤し変化しようとする中動態的姿勢が重要ではと思ったのでした。