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教育もアップデートしよう 〜正解のない/引き出す/中動態の/余白の/多次元の

お疲れ様です。uni'que若宮です。

横石パイセンの自己紹介2.0が話題ですが、この遅れてきた2.0ブームに乗らない手はありません。全力で乗りまぁす!ということで本日は教育2.0。


長女が塾を辞めたのをきっかけに、最近なるべく夕方は自宅勤務にしていて、学校から帰ったらプログラミングを教えたりリアル脱出ゲームをつくったりワークショップをしたりなどしています。また、塾の時間が空いた分、音楽や演劇など生の体験の機会もなるべく増やすことも心がけています。

そんな感じで日々、教育を実験・研究しているわけですが、その中で感じたことを今日は書きたいと思います。


正解のない教育

日本の学校教育は基本的に正解がある。そして、正解を当てると評価される

大企業時代に新卒社員のチューターをした時、かなり驚いたことがあります。それは東大京大早慶という高学歴がずらっと並ぶ新入社員と2週間位泊まり込みで合宿をして、研修の最後に事業提案をしてもらうというプログラムだったのですが、若い彼らは本当に優秀でスキルが高く、IR資料などもすらすら読み込みながら、あっという間にコンサルみたいにきれいな資料をつくりあげるのでした。

しかし、いざその提案書をもってきてもらって話をきくと、どれも似通っていて、どこにも「自分」がなかった

「この提案にはあなたがいないのでやり直しです」と練り直しをお願いすると、30分ほどでもう少し新規性のある施策を加えて持ってきて、彼はこう言いました。

これで良いですかね?


いや、ちがうんだ。僕は先輩社員だけれど、「これで良い」正解などもっていない。というか、正解なんてもんがないのがビジネスであり、社会なんだ。

どこにも正解はないから自分でつくるしかない、というモードになってもらうまでにそういうやり取りを何日も繰り返しました。


考えてみれば、高学歴の人たちというのは「どこかにある正解」を当てるゲームを一番うまくやってきた人たちです。なので、誰よりも「正解」の存在を信じていたのでしょう。


このような「正解」がある教育が有用だった時代もたしかにありました。「工場」のパラダイムの時代、すなわち再現可能性が高く同じものをつくることが価値だった時代にはとても効率の良い再生産の仕方だった。

しかし、VUCAの時代と言われるように、いまや正解だったことが3年後には間違いになってしまうような時代です。先に生まれた「先生」や「先輩」の知見が相変わらず通用するかはわからない。というかほとんど通用しない。そしてさらにこれからAI時代がくると、このような「正解」の価値はさらに低下するでしょう。


引き出す教育

以前、上智大学の曄道学長のお話を伺った時、「自分たちもわからない時代に自分たちもわからないことを”教える”とはどういうことか、を考えている」とおっしゃっていました。

これ、たしかにすごい難しいですよね。「老害」なんかも基本的にそうですが、とくにITのように変化が早いところにいると、自分たちのときの「正解」や「常識」がすでに通用せず、若い世代の方が圧倒的にいまの時代に通じている、ということがよくあります。


これからの教育に必要なのは「ティーチャー」ではなく「ファシリテーター」ではないか、とよく言っているのですが、自分が彼にとっての答えをもっていず、また答えが時代で急速に変化するのであれば、「教える」のではなく「引き出す」ことが教育のメインの役割になっていくのではないかと思っています。

なぜなら時代が変化している以上、彼の中の答えのほうが自分の答えよりも役に立つ可能性が高いからです。そして「引き出す」ことで彼が活躍できる機会をつくっていく。次代にバトンを渡していくことが一つの教育の役割だとすれば、主体を彼にシフトしていくことが大事ではないでしょうか。


中動態の教育

僕は「アート思考」とかを考える中で、最近「中動態」というのを研究しています。

中動態というのはサンスクリットや古代ギリシャ語にみられる態で、能動態⇔受動態という分化以前に存在した態とも言われます。

ちょっとざっくりだけ説明すると、たとえば「説得する」というのが能動態active voiceだとした時に、受動態passive voiceは「説得される」ですよね。どちらかが説得して、それを受けて、説得される。

しかし中動態的にいうと、説得される人はただ受け身なわけではなくて、「納得する」という行為を主体的にしている。本人が「納得する」ことで考えが変化して初めて説得は成立するのです。

あるいは「見えるsee」は中動態的動詞です。「見る」とはちがい「見える」は、能動的にする行動とはちょっとちがいます。「見える」というのは自分の意思だけではコントロールができず、ものが視界に入ってくる、という外的なきっかけがなければ起こらないことですが、これも先ほどの「納得する」と同じく単なる受動ではありません。そこにものが現れても主体が「見える」をしなければ、やはり「見えない」からです。

このように中動態というのは、自らの意思のみでコントロールできる能動ともちがい、かつただ外部にコントロールされる受動ともちがいます。行為の主体は自分にありながら、かつ外的な「触発」を受けて起こる主体の中での変容です。中動態の特徴はこのように行為の主体と対象を分けられずどちらかにのみ原因を帰することができないような、「出会い」のような性質にあります。

(面白いことに「口づけをする」というのも中動態だったりします。口づけもどちらかがどちらかに一方的にするものではなく、その「出会い」によって成り立ちます。中動態には身体にまつわる動詞がとても多いのですが「恋する」なんかも中動態的かもしれませんね)


さて、教育の話でいうと、僕は最近、引き出す教育とは中動態的なものではないか、と考えています。

「アクティブラーニング」という言葉があります。能動的に子どもたちに考えてもらう学びです。

これはこれでとても良い考え方なのですが、僕は「学び」には「みえる」のようにやはり外からのきっかけが必要だと考えています。仮に子どもたちだけで能動的に学ぶのだとすると、どうしてもその外縁は狭いものになってしまうかもしれません。子どもたちが思いつかず、気づかないことには、思いついたり気づいたりできないからです。(藤幡先生のテキストにあるように、気づかないことに気づく、「気づき」というのは決して簡単なことではありません)


子どもたちの価値観やスキルを「拡張」するためには、やはり外部からの働きかけは必要ですし、この「気づき」のきっかけを与えることが教育の役割ではないかと思うのです。

最終的には子どもたち自身の中から、あたらしい考え方が生まれてくるのを触発する「出会い」をつくること。activeというよりも、中動態的middleな教育こそ必要なのではないかと思っています。


余白の教育

こういう中動態的なあり方を考えるようになったのは、川村元気さんから「オドモTV」についてのお話を伺ったのがきっかけでした。元気さんは当時Eテレで「オドモTV」という番組をやっていたのですが、それは子供が原作者になって大人と一緒にクリエイティブな作品をつくりあげる、という番組でした。

その中に、小さな子供が自由に部屋で動き回ったその「動き」を「原作」として、振付師のmikikoさんがコレオグラフィーにする、というコーナーがありました。

最初に白い部屋に子供に入ってもらい「自由に動いて!」というらしいのですが、そうすると子供は全然動かないらしいんですね。そこでmikikoさんが「床が熱いよ!」とか「すごい風が吹いてきたよ!」みたいに声を掛ける。するとそれをきっかけに自由な動きが生まれるのだそうです。


これは先ほど述べた「中動態」的なあり方だと思うのですが、確かに「自由に」って言われても能動的に自分を出す、というのは子供であっても難しい。子供に真っ白な紙を渡して「自由に好きなの描いていいよ」っていうとなかなか書き始めませんが、線画があらかじめ描いてある「塗り絵」だとすぐ手を動かし始めます。

これは絵を描いてもらうためにお手本を見せる、ということとはちょっとちがいます。なにか「お手本」を見せてただそれを真似してもらうと、その行為はまた「正解」的な何かを求めるものになってしまう。

要は、自由度を残しつつ、それを「引き出すきっかけとしての制約」が大事で、このような「余白」をどうつくるか、というのが教育の鍵だと思うのです。


多次元の教育

そこで僕は「余白」をつくる、ということについて考えたり試したりするようになりました。どういう余白だと「引き出す」のに適していて、どういう余白がだめなのか。

最初のうち、僕は余白を「量的な空白」だと考えていました。完成形を考えて、その一部を「空白」にするのです。で、空白の「量」をコントロールすることが余白の設計なのだと、おもっていた。

しかし今はそう思いません。余白とは「量」ではなく「次元」を空けることだと考えています。

これはどういうことかというと、たとえば先ほどの「塗り絵」でも、絵に部分的に描き残しがあるわけではありません。線画、つまり「形」という次元については完全に描かれているわけです。なにが余白として空けてあるか、というと「色」という次元です。

このように、量を空けておくのではなく、ある次元については完成していて、それをきっかけにして別の次元に遊ぶ、ということが本来の余白ではないか、と思うのです。そもそも、量的に空けられた空白というのはそのネガとして完成形を前提としています。要は、正解の一部を空けているにすぎないのであって、そこには無限の自由度はありません。


小学校の問題でいえば、
□×3=18 とか □に当てはまる言葉を20字以内でうめなさい
みたいな問題がありますが、「穴埋め問題」というのは実は余白ではないと思っています。(「ゆとり教育」もある種、こういう「量の余白」の発想だったのがもったいなかったのではないかと思います)

穴埋めではなく、6x3=18だね、というのがまずあって、その数式を表すような物語をつくってみましょう、とかリズムをつくってみましょう、とか別の次元に想像力を働かせてもらう。学校の中で6x3=18をみつけましょう、でもいいかもしれない。そうしてその公式は世の中の事象に対してどう使えるのかということを学ぶのです。

穴埋めと違い、別の次元で想像するパターンは無限であり、全くの自由です。

僕は学生の頃、歴史とか古典があんまり好きではなかったのですが、それは歴史や古典が「過去のこと」なのでもう自由度がないからだと思っていたのですね。すでに全て確定しており、そこに付け加える自由度がないと思っていた。(で、最近安田登さんとかに出会って歴史や古典の面白さを知って疎かにしてきたことを悔やんでいる)

歴史や古典も、すでに確定したことを受動的に記憶するのではなく、それをきっかけにして、別の次元に想像力を羽ばたかせる、そういう「触発のきっかけ」として活用すべきではないでしょうか。


教育2.0?

「自己紹介」や「社内会議」もそうですが、「個の時代」の到来にあたって教育も身近なツールである分、アップデートが必要なものではないでしょうか。

このようにいうとどうしても「古い教育はナンセンスだ!」「子供に自由を!」という風にきこえたり、それに対して「ゆとり」教育は失敗だったじゃないか、やはり「義務教育」できっちり「基礎学力」をつけることが大事なのだ!という風におっしゃる方もいるでしょう。

全くそのとおりです。僕は、基礎学力や公式やフレームワークなどの「知識」を否定するものではありません。むしろ、そういったものが中動態的な「気付き」を与え「余白」に遊ぶきっかけになるかもしれない、と考えているのです。

なので、教育2.0といっても旧来の教育や知識を捨ててしまいましょう、というのではありません

そうではなくて、重要なことは(これはこうして文字にするとあまりに当たり前すぎるのですが)その「知識」はあくまで「触発」によって個を引き出すためのきっかけに使うのだ、という意識を常に持つことではないでしょうか。この「知識のその先への意識」こそ2.0にアップデートすべきものではないでしょうか?


公式を教える時、フレームワークを教える時、「正解」のように教えるのではなく、「よし大事なのはこっからだぞ、これを使ってどうするか、さあ、考えてみよう」というように子どもたちに仕掛けること。

大した違いはないように思えるかもしれませんが、その成すところは真逆です。前者は固定した次元に個を押し込め、後者は多次元に個の観点を広げます。これからの教育に重要なのは、そのような次元を遊ぶ「触発」のきっかけをどれくらい仕掛けられるか、そこに大人が知恵を絞っていくこと、そのように考えております。

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