日本が生き残る道-美しい日本 ①
「SHOGUN 将軍」がエミー賞で史上最多の計18冠に輝いた。世界が日本を評価したとのニュースが飛びかった。舞台設定、ストーリー展開が巧みであり、映像のアングルは70年前の黒澤明監督の羅生門を彷彿させた。なかでも真田広之さんはじめ日本人俳優・女優の所作が、かつての日本人の所作であり、美しかった。「SHOGUN 将軍」は、本当の「日本美」が評価されたのではないだろうか
では、本当の日本美、美しい日本とはなにか?
1 日本人の美的センス
まず日本美を創る日本人の美的センスを6つの絵でみていきたい
(1)お茶のペットボトル
お茶のペットボトルは緑色であると日本人は思う。黄色のラベルだったら、日本人は変に感じる。緑が好きだから緑色というのではなく、日本人の感覚には「おさまり」がある。この「おさまり」を外れると、違和感を覚える
(2)○
①は、純白で、日本人はこれを「無垢」と呼ぶ
②は、小さくても1点の黒(・)が入れば、「白」でなくなる。この小さな1点(・)がすべてを変えるという感性が日本人にある。
(3) 服
①は日本の服、②は中国の服だな、と日本人は感じる。すこしだけ見える色(差し色)が全体を支配する。「差し色」で意味を変えるという感性が日本人にある
(4) トレーナー
黒のトレーナーに白い刺繍が入っている。外国の人はトレーナーの黒地に目が向くが、日本人は白の刺繍に目が奪われる。面積で捉える外国の人に対して、小さくても白が入ると白が全体を支配し、さらに白がどこにあるのかをこだわるのが日本人である
(5) 山と桜
山のふもとに、桜の木が咲いた。桜が咲くまでは山が全体を支配していたのが逆転して、一本の桜が山を支配し山の緑が背景に変わる
(6) 日本料理
家の庭にある季節の葉を摘んで料理のお皿にそっとのせると、料理が全くの別物になる。日本料理の本質は、この「絶妙」さにある
こう感じる日本人の美的センスが、日本美を創ってきた。日本人は何とも思わないが、世界の人の感覚とは違う。この日本の美をすごいと評価されだしている
2 3つの日本の美しさ
(1)1つ目の美ー作為と不作為が創る日本の美
美しいという態様(たいよう)を考えていく
美しさには、意匠(いしょう)的な作為による美しさと、不作為なのに美しいと思うものがある
意匠的な作為とはいろいろな色やデザインで美しくつくろうという作為的な意図でそのようにすることで、不作為とは意図なくそのようにすること。この違いがある
わたしがアーテイストで絵を描いたとする。美しいものを描こうとして描く。そこに意匠的な作為を込める。完成したものは、自分では美しいものだと理解している
だから美しいと思う
そのわたしの作品を誰かが見る。表現としての意匠的な作為をもって、なにかが込められている、それがなにかは分からないが、表現的なものが込められているということを感じる
だから美しいと感じる
一方、不作為というのは、偶然、墨が白い紙にぽんと落ちた。不作為でおきた白い紙の墨が美しく見えることがある
これは意匠的な不作為。不作為だけど、あたかも意図を持って落としたように理解する。それを美しいと感じることがある
日本の庭の石は そういうところを狙っている
なぜ石が庭のそこにあるのかという理由はともかく、作為があって石がそこに置かれていることだろうことは理解する。目的は理解できないが、作為を感じる。庭の全部を詳細に見ることはなく、庭をぱあっと見る。そして庭のなかの石に目がとまり、何か作為的もしくは不作為に表現されたものだというセンサーが働く
だから美しいと感じる
犬がペンを口にくわえて描いた絵があったとする
その絵を芸術だという人がいれば、芸術ではないと考える人がいる。それを芸術だという人は、犬は不作為に描いているが、その意匠になにかしら意図的なもの、作為的な意図、表現の意匠を感じる。犬は意思などもっていないが、犬が描いたものに目的のある「意匠」を感じる。だからそれを美しいと感じる
落書きをアートだ思う人がいれば、アートとは思わない人がいる。街中に貼ってあるポスターを汚いという人がいれば、それがモダンアートという人がいる
それがどう見えるかは人それぞれだが、意図が作為か不作為か分からないけど「意匠的な位置づけ」として認知する。そう認知する人は美しいものだと感じて美しいものの範疇に入れる。一方、それを美しいものと感じない人がいても
それは自然である
世界から日本に観光に来て、日本人がなんとも思わない風景を、外国人が見て素晴らしいという。なぜそう思うのかを訊くと
日本人がわざわざそれをつくったのだろう
と理解する
日本人の作為を感じるから
美しいという
しかし日本人はなにも感じていない。そんなの偶然にできたものだと思っている。これが、最近の日本ブームの文脈であるが、この美しさが、一つ目の日本の美しさの態様
(2)2つ目の美ーありのままである美
二つ目の美は、哲学的、学問的な整理ではないが、日本人は
「ありのままである」姿を美しいと感じる
赤ちゃんをはじめて抱っこをしたお母さんと赤ちゃんの光景は美しい。生命が生まれたときの光景として、ありのままの人の姿が美しいと感じる
日本料理も同じ。素材そのものを使い、活かしきる。日本料理の本質である
ありのままであることに
ありのままであることが
美しく感じる
現代は、あまりにも作為があふれ、ありのままであるものが少なくなっているから、より
作為するものではない
ありのままのもの
が美しく感じる
たとえば人工の滝からの水が池に溜まり川となり流れるという人工的なものよりも、山に雪が積もり雪解け水が伏流水として地下を流れて湖にそそぐといった
ありのままであることが美しい
これが2つ目の日本人の美。この美しさは分かりやすい
(3)あるべきものが、あるべきところに、あるべき形であるー3つ目の美
2つ目の「ありのまま」の美に近いが、少し違う3つ目の日本人の美がある
あるべきものが、あるべきところに、あるべき形である
たとえば日本料理店で食卓においてある箸が揃っていなかったら気持ちが悪いと感じる。会議室に入って椅子がバラバラになっていたらダメだなと思う。展示用のマネキンの手がもし頭についていたら、意匠的に美しいと思う人もいるけど、変に思う、おかしいと思う、このように
あるべきものが
あるべきところに
あるべきカタチであること
これが、3つ目の日本の美しいである。 日本人にとれば当たり前のように思えるが、世界では当たり前ではない。これを普通に思う日本人のセンスが日本の美を創ってきた
3 3つの「美しい日本」
「日本の美しさ」には、この3つにあると考える
⓵ 「意匠的な意味の作為・無作為が存在していると理解できる」ことが美しい
② あるがままのカタチ、あるがままが美しい
③ 「あるべきものが、あるべきところに、あるべきカタチである」が美しい
この「美しい」というモノやコトやシーンが人の心を捉える。それが経済的価値になったり、社会的価値になったり、文化的価値になったりといろいろある。
これからの日本を戦略的に展開していく論点として、「美しい日本」があるのではないか?美しい日本をつくる「日本人のセンス」が、日本のこれからを創るのではないだろうか?「美しい日本」をシリーズで考えていく