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日本から「日本ならでは」が消えつつある

「日本のアニメは、この20年で大きく変わりましたね。バイオレントなアニメが増えた。流血や暴力が増えた。子どもには見せられないシーンが増えた」ー若いインド系イギリス人の弁護士と日本文化を議論した時に、日本文化が好きだという彼は、日本文化の変容を懸念する
 
「日本ならでは」が飛びかう。毎日のように「日本ならでは」の記事が並ぶ。日本はすごい、日本は素晴らしい、日本は世界とは違う。しかしここでいう「日本ならでは」は、本当の「日本ならでは」なのだろうか? 


1 「日本性」が日本を創ってきた

漫画のルーツが平安時代の絵巻物「鳥獣人物戯画」であるということは、多くの日本人が知っている。平安時代に、現代で言うイノベーションが起こった。世界は輪郭を描かないのに対して、日本人は、まず白地に輪郭を描き、輪郭内に色を塗るという手法を生みだした
 
その手法はその後の芸術家に承継され、江戸時代に山東京伝や葛飾北斎の漫画をうみ、明治・大正・昭和・平成の日本の漫画家の創意工夫がマンガ・アニメを発展させた。世界のMangaに押し上げた日本の漫画の特長は、絵が精緻であるとかカワイイというだけでない。世界のMangaとして評価されているのは、日本漫画のストーリー展開の巧みさでもある。なによりも

圧倒的な「日本美」を生み出す
「日本性」の品格ではないか

この「日本性」はデザインにも日本建築にも生活文化にも会社文化にもアニメにもドラマにも映画にも日本の料理にも日本の理容美容にもインバウンド観光にも発揮され、コンテンツ産業全般に展開されている
 
1000年以上も磨きつづけ体得した経験・知識・智慧を重層化させてきた日本文明の基盤があるからこそ、現代日本のコンテンツ産業が世界に存在感を示すことができている

2 その日本性は大丈夫だろうか?

日本人はようやく気がつきだした。
多くの分野で、追い抜かれていることに。電気自動車は明らかに負けている。電気自動車の技術のカギは、IoTやDXだけではない。磁石とモーターと電池が電気自動車にとって大事である。日本は、そのモーターを100年以上も前から研究を重ねて世界最先端をたどり着いた。それをもとに、独創的な電気製品をつくってきた。現在、電気自動車や高効率モーターシステムや車載電池は、中国にぶち抜かれてしまっている

モーターや車載電池だけではない。日本がいちばんだと思い込んでいた先端技術が世界に追いつけない。日本のお家芸だと思っていた技術が、中国やインドに抜かれている。日本はなぜこんなに弱くなったのか?
 
変えてはいけないことを変えた
変えなければならないことを変えなかった

明治維新後、戦後日本は米欧をモデルに追いつき追い越こそうと努力した。高度成長して頂点に立ったと思った。そんな日本を世界は「JAPAN AS NO1」と持て囃された。日本はもう米欧から学ぶことはないと自己満足して、坂の上の雲をめざした過去の奮闘努力を忘れ、新しいこと、話題になること、目立つことばかり目につき

大事なものをどんどん捨てた 

日本は、飽きっぽく、新しいもの、目立つことばかりを追いかけ、古いと思うものを捨てていった。そのなかにはとても大切なことがあったが、それらを惜しげもなく、省みることもなく、捨てた。その古いものをひろっていく企業がいて、その企業が世界企業になった
 
コロナ禍前に中国の若い企業経営者とシンガポールの政府高官と対談したが、彼らは日本をこのように見ていたが、現在の日本は彼らにどう見えるだろうか?

「技術の分野ではすでに勝っている分野は多いが、日本にどうしても勝てない分野がある―デザインである。それは意匠という狭義のデザインではなく、広義のデザイン力である。この分野では20年も30年も日本には勝てそうもない。洗練されたデザインを生みだす日本文化・日本文明には当面追いつけそうもない」

3 世界が評価するニッポン。日本が評価しないニッポン

世界から観光客が日本のマンガやアニメに憧れて日本に来る。にもかかわらず日本にきたら、それらがオタクやサブカルチャーの扱いでメインストリームではないことに驚く
 
これからニッポンは、観光とコンテンツ産業で生きていくべき
 30年前にも20年前も、そう唱える人は日本にもいた。しかし日本は「鉄鋼・家電・自動車」などを基幹産業として、観光とコンテンツ産業を色物扱いとしてきた。それが、現在、どうなった?

日本は、それからサービス産業国になった。国民の7割がサービス産業に従事している。そのサービスビジネスは、「同時消費性」という特徴を持つ。レストランに行って、食事をして、お店をでたら、そこで消費がおわる。エステに行って、エステの施術の時間がおわったら、その時点でサービスが終了する。お金を払いサービスを受けたら、消費はそこでおわる

サービス業は同時消費性

モノは、だれかから買って使う。たとえば車は買って車を持ちつづける間は価値がある。サービスは金を払った時点で消費が完結するから、それ以降、価値は残らない。残るのは、体験したときに感じた印象、記憶、経験である。モノ消費からコト消費・トキ消費という流れが世界にはあるが、日本人は

見えるモノは評価するが
見えないモノは評価しない

サービスは買ったら、そこでおわり。しかし工作機械は買ったら、10年20年30年は使える。戦後日本の産業の軸足は、「耐久財」だった。物を作り、運び、売ることを日本の主たる産業だった。鉄鋼産業・電機産業・住宅産業・自動車産業・工作機械産業が、日本を牽引する産業だと考え、サービス産業は日本の主たる産業としていかがなものかという雰囲気が続いた。日本には

「Made in Japan」神話がある

耐久財など見えるモノとして残るものを「産業」とよび、見えないサービスは産業と呼べないと考えてきた。レストラン、理容美容、マッサージ、音楽、演劇、スポーツ、ゲームにかかわる仕事はメインの仕事ではない、そんなものは周辺の消費だと下にみてきた
 
日本では「メインの産業は耐久消費財」という意識が依然強い。銀行もまだそう。耐久消費財の会社に融資・投資しても、サービス産業への融資・投資はなかなか渋る
 
国民の7割がサービス業で働いている日本で、海外からお金を持ってこれなくなると、日本の経済はまわらなくなる。現代日本で、日本国内で作って世界からお金をもってくるモノやコトはあるだろうか? ふたつある 

貿易外収支であるインバウンド
とコンテンツ産業

インバウンドの外国人が滞在する観光地でのホテルや施設や食や交流体験での売り上げは、真水で貿易外収支であるため注力すべきだということは理解できる。しかし「漫画・アニメ・映画・ゲームは遊び。だから世界展開は無理である」と多くの日本人は考える

日本人は、ハードは評価するが、ソフトを評価しない 

このように繊維や鉄鋼や家電や自動車や機械を輸出産業・世界展開産業と考え、観光やコンテンツ産業は主力産業・世界展開産業として扱ってこなかった

それが、現在どうなっている?

日本発のコンテンツは国の支援がなくとも世界で評価されている。ドラえもん、ドラゴンボール、セーラームーン、ガンダム、ポケモンONE PIECE、NARUTO、進撃の巨人、攻殻機動隊、鬼滅の刃…
 
「日本を世界に広げた最大の立役者が漫画・アニメ・ゲームだ」というと、オタク扱いされるが、厳然たる現実である。日本に留学にくる人や観光に来る人には、日本の漫画・アニメ・ゲームで育ち、日本が好きだから来たという人が多い。これからの日本産業で世界展開できるのは、漫画やアニメやゲームなどコンテンツ産業だと世界は考えるが、多くの日本人は本音のところはそう考えていない。このように世界と日本は大きく乖離している

本当の日本のことを知らないニッポン

だからコスプレのようになる
コスプレのコンテンツは、世界的に評価される日本の漫画やアニメやゲームキャラクターにもかかわらず、安価な縫製力によってコスプレは中国産が主流になった。コンテンツ産業も、そうなるかもしれない。現代日本は、ギリギリのところにいる。たかが漫画、たかがアニメとは言ってはいけない

日本にとって、なにが大切か?
発想を切り替えないといけない

4 気が増え、心が薄れた日本

「おもてなし」がスタイルになりつつある
料理が美味しいだけでは、良い飲食店にはなれない。お客さまにとって良い「もてなし」が必要である
 
日本では当たり前だと思われている日本の飲食店や商店や旅館などのもてなしが、世界で高く評価されてきた。東京オリンピック招致のプレゼンで、「お・も・て・な・し」が世界言葉OMOTENASHIになったが

「おもてなし」があやしくなりつつある 

「おもてなし」が「スタイル」になった。そもそも「もてなす」とは、なにか?
 
「もてなす」とは
「~を以(も)って~を為(な)す」こと
 
たとえばお茶をおだしする「所作」を以って、なにを為したいか。お菓子をお出しして、どのような気持ちをあらわそうとしているのかが大切なのに、お菓子の銘柄にこだわったりお菓子をだす「所作」にこだわったりと、型や様式ばかりが前面にでると

なんのために、それをしているのか

が分からなくなりつつある。もてなしがスタイルとなり、そこに込める「心」がなくなろうとしている。コンテンツばかりを意識して、コンテクストが忘れられている。日本の課題が、ここにも潜んでいる

気が蔓延し、心が薄れつつある

「気は心」という言葉がある。しかしその意味が分かる人は減った。気という字源は、気体で水蒸気。発散しやすいもの、実体がつかめないもの、実態が見えないもの、ころころ変わってしまうもの、なくなってしまうもの、消えてしまうもの、集めておけないというのが、気の意味
 
この「気」が日本中に溢れて、「心」がしぼもうとしている。世の中でおこっている出来事の多くが「気」となり、「心」がついていっていない。「心ない」、これまでならば考えられなかったような事象、物事が増えている。コロナ禍に入り「気」がさらに蔓延した。そしてコロナ禍が明けて

世の中は「気」だらけになった

雰囲気を察知して、空気を読み、気のきいたことをするという「パフォーマンス」時代となった。瞬間、瞬間に即応するパフォーマンスが増えた。なにかをいわれたらすぐに対応する。その即応さがしゃれていると、彼はシャープだね、彼女は頭がいいなと褒めそやす。だから

そんな雰囲気の人が増えている 

そもそもパフォーマンスは人を喜ばせるためのものであり、人気を得ようとするもの。しかしその人気は永続きしない
 
「気」は、実体がなく、つかめない、見えないもの、刹那的なもの。気は軽く、すぐになくなってしまう、ころころ変わってしまう、消えてしまう。そんな「気」にまぎれて、「心」がおきざりにされようとしている。本来、人に心を配る、心に寄り添うのが日本流だったが、その大事な心がなくなりつつある

 「日本ならでは」の心が
どこかにいこうとしている

日本は「心」からはじめ、心が「日本性」をつくりあげてきた。それが、「気」からはじめ、「気」が支配する国になりつつある。日本社会から「芯」がなくなりつつある

インバウンドで「もてなしの心」を標榜されるが、実態は「もてなしの気」となっている。もてなしが型・スタイルになろうとしている。相手を気分よくしようという「気」という様式・スタイルになろうとしている

世界から注目される「日本性」を創りあげてきた「心」が、「気」になろうとしている。日本社会から「心」がなくなろうとしている
 
「心」を取り戻さないと、日本から「日本性」「日本ならでは」は消えていく


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