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心に留め置いている3つの教え「自分らしい視点」「巨人の肩の上の小人」「わたしを離れて去れ」 #大切にしている教え

お疲れさまです、uni'que若宮です。

日経COMEMOから「#大切にしている教え」というお題が出ておりましたので、今日は僕が大切にしている3つの教えについて書きたいと思います。


「お勉強ではなく、必ず自分らしい視点を付け加えること」

僕の「大切にしている教え」は3つあります。思い返してみれば、これらはすべて大学で出会ったことばでした。


1つ目は、大学時代に恩師である美学者の佐々木健一さんに言われた言葉。

以前こちらの記事でもそのエピソードを書いたことがあるのですが、

僕は大学に2度行っていて、2度目は学士編入という形で美学藝術学科に入学しました。すでに同級生よりは6歳ほど年嵩であった僕はその初回の演習で張り切って自ら立候補し、入念に準備して意気揚々と発表をした…のですが…、、教授からは「よくお勉強しましたね」という薄い反応。

その反応に釈然としなかった僕は授業の後で佐々木教授を追いかけて詰め寄ったのですが(笑)…

国立大学は、君が「お勉強」をするために税金を使っているのではない。

という強烈な一言をいただいてしまいました。そして続けて、

大学は「お勉強」をするところではない。学問と勉強はちがう。ただ受け身で学ぶのではなく、そこに「自分らしい視点」を付け加えなければならない。それが研究であり学問だ。

この言葉が原点となり大学での研究への姿勢も変わりましたし、その後の人生においても、新規事業や起業をしたりと小さくとも社会を変えるアクションを起こすようになった、僕の人生を変えた言葉といっていいと思います。

日本で教育を受けて大人になると、知らずしらず仕事すらも「お勉強」的に受け身になってしまうことも多い気がします。大事なのは自分らしさを常に付け加えること、それはいまのアート思考の考え方の原点でもある気がします。


「巨人の肩の上の小人」

とはいっても、「お勉強」が全くいらないというわけではありません。

「自分らしい視点」と言っても根拠なく適当に言えばいいわけではありませんし、過去や歴史から学ばなければ浅いことしか言えません。研究においては特にそうですが、新規事業も同じで、これまでに試された膨大な先行事例を知ることはやはり大事です。


これも大学で出会った言葉ですが、人文学では「巨人の肩に乗る小人」という比喩がよくされます。科学や芸術が復興とともに大きく進んだルネサンス期に言われたことばです。現代人がもっとも進歩しているように思えるかもしれないが、現代人はほんの「小人」でしかない。しかし「小人」は「巨人」=過去の偉人の知恵の土台に乗ることでさらに少し遠くまでみることができる、という意味です。

我々[現代人]は巨人[古代人]の肩の上に立つ小人のようなものであり、それゆえ我々は昔より多くのものを、より遠くのものを見ることができるのだとシャルトルのベルナルドゥスはよく言ったものだった。そしてこれは我々の視力の精確さや我々の身体の優秀さによるものでは全くなく、巨人の大きさによって上に運ばれ高められているからなのだ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9

先程のべた「自分らしい視点」というのも、全くのオリジナルではありません。新規事業をやっていると「誰も思いついたことが無いアイディアを思いついた!おれ天才!!!」と思うことがありますが、もうこれは99.9%勘違いであり、ほぼ似たようなことがすでに何百回も思いつかれ、試されています。

しかしそれでも、すでに多くの先行事例があり、その集積と厚みの前に自分がいかにちっぽけに思えなにも付け足すことができないように思われても、それでもなにかひとつ、「自分らしい」視点をそこに付け足すことはできます。そうすることによって過去の肩にのりながら、過去の人たちが断念したり引き返していったその先の一歩を踏み出し、ほんの少しだけ進むことができるのです。

そして、「自分らしい視点」とは既存の延長ではありません。先例やすでにある価値観に囚われてしまうと「それはもうやったけど無理だよ」「常識的に考えてそれはだめだよ」というように過去の中に閉じ込められてしまいます。

だからこそ「アンラーンunlearn」や「ゼロベース思考」が必要です。しかしそれも元々身に着けなくて良いとか、本当にすべてを忘れてしまって「ゼロ」にすることでは勿論ありません。「反面教師」や批判的な乗り越えであっても、ベースとして触発の土壌であり、なにも無ければいいのではないのです。

日本の芸事には「守破離」という言葉がありますが、先人によって培われてきた知恵は無意味ではありません。「巨人」の知恵と出会うことなしには、小さなことしか成し遂げられません。その「型」をまずは「守」って学び、しかしそれにとどまらず型を「破」ってはじめて型を「離」れて自分らしい型を生み出すことができます。

僕は美学芸術学の学部生時代には、ニーチェの芸術論を研究してたのですが、彼の「駱駝」「獅子」「小児」という「三様の変化」は「守破離」ともよく似ています。

人はいつの間にか既存の価値観の重荷を背負い、しかしそれに慣れ「駱駝」のように生きています。「汝なすべし」という「べき論」を負って。

これに対し「獅子」は、義務に対して「否」を言い「われ欲す」と発して自由を強奪する猛獣です。そして「否」をいう「獅子」を越えて、深い肯定をする、それが「小児」の段階です。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。
 小児は無垢である、忘却である。新しい開始。挑戦、おのれの力で回る車輪、始源の運動、「然り」という聖なる発語である。
 そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する

ニーチェ『ツァラトゥストラ』(強調は引用者による)

小児は「べき論」でもそれへの「否定」でもなく、新しい地平でみずからの世界をつくりだし、自らそれに「然り」といいます。それは無垢で、遊戯のようなものです。


「わたしを離れて去れ」

というわけで、3つ目の「大切にしている言葉」として、ニーチェの言葉をご紹介させてください。

それは僕の「教育」や「育成」についての態度の根幹になっています。少し長いですが、引用します。

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。
まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。
いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。
君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないよう気をつけよ。
君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信ずると。しかしツァラトゥストラそのものになんの意味があるか。君たちはわたしの信徒だ。だがおよそ信徒というものになんの意味があるか。
君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。探し求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから信ずるということはつまらないことだ。
いまわたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……

ニーチェ『ツァラトゥストラ』(強調は引用者による)

ここでは「教え」や「師」そのものを乗り越えられるべきことが言われています。師を尊敬していればこそ、師の元を離れよ。それが唯一の「師に報いる道」だとニーチェは言います。

教え育てるということは、弟子に自らの道をみつける力を伸ばすことであり、つまりはいずれ否定されることを願うことではないでしょうか。



僕ももう年齢的にはだいぶ「大人」になってしまいました。だからこそ

「お勉強」ではなく「自分らしい視点」を持ち続けていられているだろうか?

自論を高慢に勘違いせず、先人の知恵に敬意をはらいながら、なおもその肩に乗る小人であろうとし続けているだろうか?

後進に対し、いつかは拒まれ否定されることを願う教育をできているだろうか?

この3つの教えを戒めとして反芻しながら、しかしこの教えに囚われすぎてしまうことなく、自分らしさを大切にこれからの人生も生きていきたいと思っております。どうぞ宜しくお願いいたします。

#大切にしている教え


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