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運動音痴が考えてみるスポーツの効能

今回のCOMEMOお題はこちら。

さて、何を書こうと思索し、キーボードを打つ指が止まる。

筆者は筋金入りの運動音痴である。ボールの挙動が直感的にわからず、迂闊に球技に参加すると、その種類を問わず、必ずエレガンスに欠けた有様を披露することになる。
ので、このお題に応えるライセンスがあるのかどうか甚だ疑わしいところではあるが、人間理解とスポーツの関連を考えるところから、糸口を掴んでみようと思う。

さて。

上の記述からお察しいただけるように、筆者はほとんどのスポーツから縁遠いが、宴席などで「ゴルフをやらない」というと必ず意外そうなリアクションを返される。

意外そうなリアクションの後は、必ず始めることを勧められる。若い頃から通算して考えれば、その経験は十指に余る。

筆者はマーケティングを生業としているのであるが、この分野では色々な方とひょんなことで知り合い、それがきっかけに仕事に発展することもままある。

ゴルフは、その「ひょんに知り合う」「発展する」のに打ってつけである、というのが、多くの方は筆者に勧めてくださっている理由である。

尊敬する友人や先輩の多くは、確かにゴルフをそのように活用している方が多い。話を聞いてみると、

・4人組で、というルールがあるので、自分以外がホストの会は知らない人と知り合い、回れることが多い
・どのようなゴルフをやるか、ということを通じて人となりがわかるので、コミュニケーションが取りやすくなる

ふむ、なるほど。確かに一理ある、と得心したものだった。

今回のお題について、考えを巡らせたときにまず思いついたのは、この話であった。一見業務と何の関連もない球技が、その実仕事を促進するとは、なかなか面白い。

さらに考えを推し進める。ゴルフを通じて仕事が促進されるのには、また別のメカニズムが作用しているような気がしてきた。

ゴルフは競技である。つまり、一定のルール下で、他者と争い、最終的な勝敗をつけるゲームである。
これはプレイヤー視点に立つと、同行者はゲーム中はライバルであるが、終了したらノーサイドになる、ということでもある。

このライバル→ノーサイドのプロセスは、ある種「競争→和解」の擬似経験として、いわば「雨降って地固まる」ような作用をしている、ということはないだろうか?

筆者は以前、人はとかく「あいつらと俺たち」という意識に陥りがちで、生産的・建設的になるためには、この意識から解放されることが重要である、という指摘をしたことがある。こちらの記事だ。

ゴルフの効能としての「競争→和解」擬似経験は、この記事でいう「あいつらと俺たち」意識から、プレイヤーを解放してくれている、と言えるかもしれない。

これを敷衍すると、企業などの組織の中で蔓延しがちなサイロ化や政治的ジャッジの蔓延といった症状を解消するためには、何らかの形でスポーツを導入するのが処方箋になるかもしれない、とも思える。

さらに。

まだ興奮冷めやらぬWBCでも、4年に一度の祭典でも、同じような現象が観察された。つまり、各国の人々は、自国のチームを熱狂的に応援するが、一度ゲームが終われば、競技で戦った相手も敬意とレスペクトを持って称えあう。

これは、大きく考えてみると、自己の中心にある「あいつらと俺たち」意識から離れられない人間が、その意識ゆえに起こす最も愚かしい選択である戦争の代理行為として、相互の心の中にある境目を昇華してくれている、ということなのかもしれない。

ここのところ話題のEスポーツは、必ずしも身体性が伴わないことから、スポーツと呼ぶのに若干の違和感を感じる向きもおられるかもしれない。しかし、Eスポーツにもこの「技術」としての側面があるであろうことを考えると、Eがついているかどうかは、スポーツの最も大きな効能に関係ないのでは、と思えてくる。

以上のまとめとして、スポーツからの最大の学びは「人を「あいつらと俺たち」という意識から救ってくれる技術」という点にある、と筆者は考えたい。

読者の皆さんは、どうお考えだろうか?



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