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花火で街がかわった―人が集まる戦略

夏には花火が似合う。日本の夏の花火人気は、年々高まる。大阪の花火は川からの打ち上げが多い。天神祭り船渡御の花火につづき、関西を代表するなにわ淀川花火が開催された。江戸時代の大坂は縦横無尽に張り巡らされた川や運河で物流・交通を行い、水の都と言われるほど川・水との関係が深かった。その川に花火を打ち上げる

淀川の花火を観るため、大阪のみならず関西一円から淀川の河川敷に、花火見物客が集まる。川から空に打ちあがる花火を高層ビルやマンションから観る、淀川に架かる鉄道橋を走る電車から観る、飛行機やヘリコプターから上空から観たりと、夏の一大イベントになった

誰が花火を観に来られているのか?花火打ち上げ会場の淀川河川敷に向かう人たちを目視観察した感覚では

若者5割、ファミリー2割、外国人1割 

圧倒的に若い世代が多い。年々、浴衣姿の若者が増えている。朝から、昼から、浴衣姿が街をつつむ。花火を観ることだけが目的ではない

浴衣を着て花火の日を
過ごすことが大事


1 花火を近くに観るために、そこに住む人たち

「淀川の花火を観るため、ここに住む人が増えている」と不動産会社の営業マン。花火打ち上げ会場に街が若者たちの人気スポットとなり、新築マンションや戸建て住宅が増えている。大阪駅から一駅という利便性もあるが、なによりも

「花火が見える」ことが
惹きつけている

若者は新築賃貸マンションに住みたいと望み、上層階から決まる。若いファミリー層は分譲マンションに住みたいと望み、上層階から決まるという。淀川花火が観れるといっても、1年365日の1日のうち1時間という夏の一瞬なのに、わざわざ住む場所を花火の打ち上げ場所にするのだろうかと考えてしまうけれど、そんなの関係ないようだ

若い人たちはここでマンションに住み、彼・彼女、友だちを呼んで

花火を観る日を楽しむ

1年に1日の花火大会であるが、その1日が大切なイベントであり、それが彼らの

Well‐ Being(佳く生きる)である

価値観の変化に伴ってライフスタイルが変化する。マンションが続々と建ち、花火の街に住む人々の姿が増えた。彼らがWell‐ Beingを演出するための場として、若者向けの小洒落たレストランやパン屋、個性的なラーメン屋などが増えた。吉本興業の芸人が住みだして、彼らがテレビで街を紹介するようになり、さらに若者が増えた

この10年で、街の風景が変わった

淀川花火大会は、平成元年に市民ボランティアによる手づくり花火大会から始まった。地元の住民である私にとって、最初はローカルな花火大会であったが、36年後にこんなにメジャーになるとは思っていなかった

花火が、街を変えた

なにかをすることで、なにかが変わることがある。しかしうまくいくことと、うまくいかないことがある。それは、うまい戦略と、悪い戦略の違いである。どう違うのか?

2 なぜアムステルダムには古い建物が多いのか?

かつて清里は、圧倒的に眩い輝きのある地名であった。
1980年代、山梨県の「清里」は高原の原宿と呼ばれ、牧場、美術館、ペンション、ショップが続々と建てられ、メルヘンチックなまちとして、全国から観光客がおしよせた。それから40年後の現在、清里の多くの建物は閉められている
 
オランダのアムステルダムは、世界から観光客を惹きつけつづけている。街には、200~300年前の建物が残っている。オランダ人に、この街を変えようという意識はない。建物はそのままで、建物内を働きやすく、暮らしやすく変えて、使いつづけている。だから街の佇まいは変わらない

現代日本のように古くなったら、建物を取り壊して、新しく建物を建てて、街を変えようとはしない。伝統的な建物を計画的に残そうとしているのではなく、アムステルダムの人は、そうするのがあたり前のことと考える

結果として、古い建物が残る
そういう文化である

清里の話に戻る。その街がつくりあげられた瞬間はうまくいっても、そこにそれがある、そこでそれがおこなわれるという「必然性」がなくなると、街は再生産しなくなり、持続しない。街はいつか消える

 文化とは、必然性のあるものを
繰り返すこと

3 なぜその会社はそこにずっといるのか?

ある大阪の大手製薬会社の社長に、「なぜここ大阪船場の道修町に、本社を置きつづけるのですか?」とお訊きしたことがある。その社長は、即座に「神農さんがあるから」と答えられた
 
道修町にある神農さん(少彦名神社)のお祭り「神農祭」が毎年11月22日と23日に大阪の留めの祭りとして開かれる。道修町は安土桃山時代に豊臣秀吉が薬種商を集めたまちで、現在も製薬会社が並んでいる。神農祭の2日間は、船場のオフィスビル街が神農さん一色となる

少彦名神社

その神農さんのシンボルは「張子の虎」

なぜ虎なのか?
1822年に、大坂でコレラ(当時、虎狼痢(コロリ)と呼ばれた)が流行した。そこで道修町の薬種商が疫病除薬として、虎の頭骨などの和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」を売り出した。それにちなみ、「張子の虎」をお守りにして、コレラ感染を乗り切った

その200年後のコロナ禍に
張り子の虎が登場した

製薬会社は、この神農さんの祭りを大事にした。製薬会社にとって、その祭りに意味があったから、全国から集まった
 
かつて祭りには、意味があった。夏の祭りは疫神怨霊を鎮めるためのものであり暑い夏を乗り切るためであった。秋の祭りは農作物の豊作を神に御礼するためであったが、田畑がなくなった地域での祭りの意味は変わった

地域にとっての「必然」があって、そこに神社がつくられ、地域の人たちは祭りをおこなってきた。地域に住む人は互いに助け助けあい、米や野菜をつくった。祭りはその「収穫祭」であったが、目的が消えて「祭り」だけが繰り返されている

必然性がなくなれば
いつか祭りは消える

その薬文化の土壌だった船場から離れる会社がある

4 都市やまちが消えるのは?

必然性がなくなった場所は、いつか消える。都市やまちやむらには、それぞれを成立させる目的があり

目的のあるところは、残る
目的がなくなれば、消える

たとえばアンコール・ワット、モヘンジョ・ダロ、敦煌。たとえば平城京、難波宮、長岡京、鎌倉幕府が、どこにあったかは分からない

藤原京がどこにあったのか、正確には分からなかった。飛鳥京もそう、平城京もそう。最近になるまで、どこにあったのか、分からなかった。難波京も、昭和までどこにあったかが分からなかった

たとえその時代において日本の中心地であったしても、その役割がなくなれば、人々は忘れる。それは、日本だけではない、世界も同じ。「必然性」がなければ、場所だけでなく、人々の営みも、行事も、風習もすべて、みんなの記憶から消える
 
しかし時が経っても、残るものがある。残る、残らないものの違いは、なにかーそれに「必然」があるかないかであり

目的性がある限り、人は集まる
必然性がある限り、人は集まる

都市が必要とされるならば、都市ができる。都市に集まる目的を求めて、人が集まる。この順番である

5 人が集まりつづけるための大切な戦略

 都市の意味を取り違えている人が多い。都市とはなにか?

「都市という空間」があるのではない
集積の経済」が働くのが都市

集積の経済が働かない都市は、持続できない。「都市という空間」を前提とするまちづくりは誤っている。だから多くは失敗する

都市とは、「集中の経済」が働くもの
「人が集まる仕組み」が重要

・ブラジルの首都ブラジリアは、街も村もない荒涼とした標高1,100mの高原地帯に人工的につくったガ、計画通りには成長していない
・アメリカのラスベガスは、ギャンブルのまちからエンターテイメントのまちに変貌させ、発展しつづけている

人工的につくった都市であっても、人々が行く目的があれば、人が集まり、住み、働き、衣・食・学・遊に経済性がつき、自立したら、都市は動き出す。だから都市・まちにおいて大切な戦略は

必然性を埋め込み
集積の経済を働かせること

それができている都市・まちには、人が集まりつつづける。そのための戦略を考えて実行しているのかいないかの違いである


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