技術ではなく世界を社会実装する
「医療VR」と呼ばれること
僕が取締役として参画しているHoloeyesというベンチャー企業は、「医療VR」と表現されることが多いです。昨年末からは、メタバースの文脈でもご紹介いただくことが増えてきました。
僕個人としては、VR/AR/MRなどのXR技術は「体感を伴う空間的理解」を実現する手段であり、医療コミュニケーションの新たなスタンダードの社会実装を目指している、と考えています。
この体感を伴う空間的理解、というのが面白いところです。
3次元の2次元による錯覚
平面の2次元モニター上では、錯覚が起こってしまう。立体の3次元データがそこにあったとしても、2次元モニターを通して見ることで、錯覚を起こしてしまう。
CTやMRIなどで人体をスキャンし、それに基づき3次元データを構築したとしても、2次元モニターを通して見ることで、その立体構造の把握が困難になる場合があります。
体感的空間認知
しかし、その3次元データを、体感を伴う空間的理解ができれば、これはもう、誰がみても一発で理解できるようになるのです。
目を閉じて自分の部屋を思い浮かべてみてください。扉を背に立った時、どのくらいの空間が広がり、どのくらいの距離に、どのくらいの大きさの家具があるか、当たり前のように思い描くことができます。それと同じ感覚を、人体の構造に対しても持てるようになります。
情報の非対称性を埋める体感
これは、医療従事者同士のコミュニケーションにおいて、大きな価値を発揮します。
さらに、大きな価値を発揮する場に、患者説明つまりインフォームドコンセントの場面があると考えています。そこには、大きな情報の非対称性があるからです。一般の人は、人体の解剖をほとんど知りません。僕もそうでした。肝臓がどのくらいの大きさで、どこにあるのか。腎臓は、どこにあるのか。全くわかっていませんでした。それなのに、CTなどの白黒の写真を見ながら、病態の説明を受け、手術の流れやリスクを説明を受け、それらを理解したという前提で、自らの意思で選択しなければなりません。
かなり難しいことです。この情報の非対称性を、体感的空間認知が埋めてくれるように思うのです。
資本主義と医療サービス
また、資本主義に完全に毒された姿勢も足をひっぱります。
資本主義は、労働と消費の構造に、すべての活動を押し込めようとします。それは、健康を害した際の治療という、本来自分の命を繋ぐための、生きる上で当たり前の、自分ごとの行動であるにもかかわらず、医療サービスの消費者にしてしまいました。
医療サービスを買う。その姿勢が、依存を生み、理解することを放棄させているように思えてなりません。
自分の体の構造を、当たり前のように知ることができたら。自分の体の状態を、当たり前のように知ることができたら。自分の体の状態について説明を受けた際に、きちんと理解することができたら。自分の体への介入について、医療従事者と共に前向きに行動することができたら。
人の健康というもののあり方が、変わるように思えるのです。
立ち現れる世界
情報流通とコミュニケーションと、そこに立ち現れる世界について、別の記事で書きました。
こうした、自分の体との対話を可能とするためにも、まず体のことを知る。それも、誰もが理解しやすい形で知の循環を促す。そのための技術活用を社会実装していく。
コミュニケーションは、情報の流通そのものであり、認識、理解、応用のすべてに関与するものです。人と人との間の知の伝達だけではなく、環境への理解と介入そのものも広義のコミュニケーションといえます。
この記事でも、「メタバースは、技術ではなくビジョンだ」と書かれています。
技術によりコミュニケーションの形が変化することは、様々なコミュニケーションデバイスの変遷や、情報ネットワークの変遷を例に出すまでもないことと思います。
医療という命に直結する領域で、コミュニケーションの形を変化させていくことは、人の命に対する意識を変えていくことにつながるのではないか、変な言い方ですが「もっと自分ごとになるのではないか」と、個人的には思うのです。つまり、間に立ち現れてくる世界が変わっていく。
それが、僕がHoloeyesというベンチャーで目指してることでもあります。