「悲観論は無意味で有害だ」と言った方が良いのか?
楽観的なことを言っているとアホかと思われ、悲観的なことを言っていると賢いと思われる・・・というのもかなりステレオタイプな理解です。
ハンス・ロリングとオーラ・ロスリングの『ファクトフルネス』が大ヒットしたのは、データをみると「世界って結構イケている方に向かっている」と実感した人が多いからでしょう。
楽観的になれるのは気持ちのもちようではなく、現実把握力によるのだ、というわけです。以下の記事もその線で書かれています。
最も知識が少ない人が将来を最も悲観していた。比較的に貧しい国に暮らす人は現状に楽観視できるのは、貧しい現状がより良い方向に向かう兆候を感じるからです。それらの実態をよく知らない経済的に成熟した国の住む人たちは、自らの国の下り坂と貧しい国の上昇の遅さばかりが気になるのでしょう。
「世界はより良い方向に向かっている」と中国では41%の人が回答し、英米では4%から6%とのこと。中国が「比較的に貧しい国」とのカテゴリーでおさえられているのか、それとも情報のコントロールの影響を受けているのか、ぼくには判断がつきかねます。それにしても数字に乖離があり過ぎますね。
ところで、悲観論の効用って何でしょう?
悲観論はなんらかの行動に駆り立てる。政府があてにできないと分かったとき、自分たちでサバイバルのために動くしかない、ということですね。こうしたパターンが悪いわけではないですが、極端なケースになると、社会そのものが崩壊の憂き目にあう、または人生を自ら断つということにもなりかねない。
ここです。
他方、楽観論もやはり同様に行動を駆り立て、それが極端にいけば、混沌とした状況をつくる。期待外れのことばかりが続けば、やる気を失います。
人は最初から悲観的であったのではなく、楽観的なことに可能性を見いだせなくなったとき、悲観的な方向に転じるのではないかとも思います。
世の中、多くはなかなか上手くいかない。悲観的になってしまうのはとても自然なのです。
そのなかでどう希望を見いだすか?が知性の働きなのでしょう。現実をより正しく掴み、そのなかで突破口を見つけ出すとき、希望は輝いた存在になるのです。
・・・ここまで書いてきて、ふと思うことがあります。
2014年、イタリアの高級ファッション企業のブルネロ・クチネリの創立者にインタビューしたとき、彼はぼくに本をプレゼントしてくれました。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』を英伊の両方の版をくれました。「現状、悲観的な話が多いが、データからすれば、人類における無駄な死は減っている」と言いながら。つまり、前述の現状把握力が鍵であるのを物語っています。
それから何度も彼と話し、講演も何度も聞いてきました。彼の言葉は明るく、将来への期待があります。貧しい農民の息子がファッション界の重要人物になったのですから、あらゆる困難な壁は越えられると思える確信が強いのは想像するまでもないです。
ここで想起したのは、2022年、彼がローマ大学で名誉博士号を授与されたときのスピーチです。そのときのことは、以下に書きました。
彼は次のように若い学生たちを鼓舞したのです。
ほっぽっておけば、悲観的な話の渦に巻き込まれる。だから、楽観的になるには意図的に環境をつくらないといけないと言っているのです。知性第一主義にはいろいろと無理がありますが、生きるための知恵として知性の活用は大いに考えたらいいよ、ということです。生成AIと人の知性を対抗的に捉える論も多いですが、知性は希望をもつためのものと考えたらいかがでしょう。
冒頭の写真は先月ミラノで行われたブルネロ・クチネリのプレゼンテーションの様子です。
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