行きすぎた日本型自由の行方 ― 自由と統制②
ある時、突然、日本人は熱狂する。そして行きすぎる ―― 恐竜は巨大化して地上を支配したが、環境変化に対応できずに絶滅した。キリンは餌争いのために首がどんどん伸びたが、餌である樹木の高さを越えなかった。それはなぜか。今のキリンの首の長さになったのは、伸びすぎるとキリンは生き残れなかったからである。なにごとも生き残るためには、バランスというポイントがある。
1.なんとなく従わないといけないという空気
マスクを着用しなければいけない、マスクは着用しなくてもいいのでは ―― コロナ禍に入って、YesかNoか、なんどもんなんどもそういう議論が飛び交う。コロナ感染拡大を抑制するために、「マスクをしないといけない」という条令をつくらないといけないのでは?という声が出た。そういう建てつけは、自由を保障する憲法に抵触するのではないか、みんなの自由でいいのでは?という声も出た。
コロナ禍3年目になって、コロナは空気感染するのだとかマスク着用は効き目があまりないというエビデンスがではじめた。するとマスク着用義務化はますます法律になじまなくなった。
マスクをしないと入れない場所があるのは、自由主義の世界ではどうなのだろうが、自由主義の国においては、本来、賛成表明も反対表明も許される。看板を規制する条例を出しながら、都心部での具体の看板設置は統制していないのが実態である。難民の受け入れで、ある民族は受け入れるが、ある民族は受け入れないということがある。あっちはいいけど、こっちはだめということがあるのが日本。
これは本来の自由主義の世界では
ありえない
どこにも書いていないのに、なんとなくそれに従わないといけないというような空気が生まれてくる、それが日本型自由主義を支えていたところもあった。
2.なにをやろうと私の自由だろう
今、私たちは自由主義の時代を生きている。しかしまだその自由主義は長い歴史のなかで、新しい社会システムとして試行錯誤中である。
かつて日本では武士は帯刀していた。明治9年(1876)の廃刀令で刀が取りあげられた。一方アメリカの社会からは銃がなくならない。それはなぜか?自分のことは自分で守ることがアメリカ合衆国憲法で許されている。相手が銃を持っている可能性があるから、自分も銃を持たないと殺される。自分を守るため、銃を持つ。だからアメリカ社会は銃を禁止できない。
しかし国民みんなが自由自在に銃を持てるという状況を放置していたら、社会は大変なことになる。そこで銃の所持を認めるかわりに、警察権力を強くして銃を持つ人を制する。
という考え方がそうさせる。
またアメリカには黒人運動を弾圧した歴史がある。これは本来の自由主義の国の姿ではない。白人専制主義の姿である。白人がすべての人種を優先するという思想が根底にあるから、そういう動きにつながった。自由主義にはメリット・デメリットがあるにもかかわらず、日本は自由主義を十分に吟味しないまま、「自由主義はなんとなくいいものだろう」と考えて、日本は自由主義を直訳的に導入したが、自由主義を日本風に意訳して
このような独自の日本型自由主義の形がうまれた。
3.行きすぎたら抑圧され、また解放される
コロナ禍に入って、公共の場で人が集まるところでは
マスクをしていないと
あかんだろう
という空気が漂う。その文脈で、飛行機という密室空間で、マスクしろ、したくないトラブルがおこって、話題になった。
とはいうものの、自由主義の世界では、アダムスミスの「神の見えざる手」がはたらく。自由に動いていて、ある方向に行きすぎると、反動力がでてくる。左に傾いていたものが突然右に傾いたりと、行ったり来たりする。しかしいつか、どこかでバランスする。それが自由主義をささえていた。
自由に生活することへの反作用的な不利益がでてくると、その自由はおのずと統制され、ある一定の制約が社会のなかに形成されていくのが、資本主義社会の自由競争を支える考え方だった。それがまさに自由と統制のバランスだった。それが崩れつつある。
みんながいるなかでマスクをしていないと、居心地が悪くてたまらない。大きな声で喋っていると、みんなから冷たい目で見られる。そういう形で、暗黙のうちに、自由に対する社会的な統制がかかる。
このように自由主義というメカニズムは、行ったり来たりの連続だった。
これを繰り返す。そのなかで重要なことがある。繰り返したあとの姿は、元の姿にそっくりそのままに戻らないということ。コロナ禍後の社会がコロナ禍前の社会に戻らないのと同じように。どうなっていくのか、日本。
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