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どこまでも深い人―松岡正剛先生の死を悼んで(中)

なにかを選ぶことは、なにかを捨てること。戦略とは勝つための方法を選択することだが、なにかを選択しないことー私はこれを肝に銘じている
 
「スマホのメリットは言うまでもないが、スマホによって、人の力から『地理軸と時間軸』が弱くなっていく」―6年前の「知の巨人」松岡正剛先生への「スマホのメリットとデメリットは?」の大阪ガスエネルギー・文化研究所長時代の私の問いへの答えだった。これから本格化する生成AI時代に、人からなくなるチカラであることを認識しないといけない。卓見だった

亡き師匠松岡正剛先生と、日本再起動を「場」「交」「耕」の3つの切り口で考えた。前回の「『場』-都市を問い直す」につづき、『交』ー交流(つながり)を問い直した大阪ガスエネルギー・文化研究所「情報誌CEL」での対談3部作の第2弾を再録させていただく


1 日本文化にあるインタークロス性

池永 前回の「場」につづき、今回では「交」、交流(つながり)を問い直していきたいと思います。
どうも「大阪人」というと、あるイメージを抱かれて、個人という主体が見えづらく、交流する主体や対象が何であるのかが見えなくなっているように感じています。しかしこの主体や対象が見えないという問題は、大阪に限らず、近畿園、日本が抱えているように思います。そこでまず、交わる主体と対象の個性、オリジナリティが何であるかを明らかにすべきではないか。さらに、「交」を考えるには、外からの活力が集まって交わることができる、環境や風土についての考察も欠かせないのではないか、この視点の重要性は、インパウンドの文脈で語られることはありますが、海外の人を対象とするのみならず国内の人々に対してもなければならない。松岡先生には、多様な意味を持つ「交わり」という文字の読み解きなども合めてお話をいただければと思っています
 松岡 日本における「交」は、たとえば、蝦夷(えみし)、陸奥、大和、博多といったように地域によって「交」の視点がズレることもありますし、歴史的なことでいえば、仏教や儒教のように外からやってきた文物が交わるということがありましたが、今一番考えるべき「交」は、交際、交易、交流、交通、それから交換です。要するに「インタークロス」です。英語には、トランスクロスやトランスミッション、トランスファーというように、境界を超えるという意味の「トランス」という語がありますが、日本は万葉の頃からインタークロッシング型に文化や言語、モノを交えるということが多かった。それが「交わり」ということです。これをどう捉えるべきかが、いまだ議論されていません。インターとトランスの違いを考えたほうがいいと思います
なぜインタークロスが重要になったかというと、内と外の間、私は「リミナル」と呼んでいますが、内と外の間にもうひとつあったのです。中国のように家の四囲を囲んでしまう文化ではなく、開け放しでありながら内と外の間に軒(のき)や庇(ひさし)、縁側、生垣などをつくるということですね。そうすると内と外が呼応する間、際(きわ)に何かができている。これがインターではないか。茶室でいうと内露地、外露地、さらに古田織部や小堀遠州の頃の中露地といったものです。外に縦断的にコミュニケーションするのももちろん大事だけれども、小さなところでもコミュニケートして交を起こす。この多重性が日本の「交」にとっては大きい気はしますね
池永 それは大阪ガスがおこなっている実験集合住宅「NEXT21」の「中問領域」という考え方にもつながっています。ブライベート空間でありながら公の空間でもある、内と外の間の空間を「中間領域」と名付けていますが、この中間領域が、これからの住宅のみならず都市や社会構造において重要ではないかと捉えています。かつてはそういった土間や縁側、庭や露地のような世界があったわけですが、現代は空間として無くなるだけでなく、使い方がわからなくなっている
 松岡 そうですね。公と私が交わるところには、中間領域である「共」が出てきます。「共」を「交」につなげること。点が交わることが必要なのですが、それが単一化したり、短すぎたり、切れ切れになっている。共のなかに交がたくさん出てこなければいけないのに、共が生まれるところまできていない。中間領域が単調なんですね

2 「和魂漢才」「和魂洋才」にみる日本型翻訳技法

池永 インバウンドで注目が集まっている高野山ですが、松岡さんは高野山の始祖空海について「空海の夢」という本を書かれています。空海に代表されるように、外のものや異なるものを取り入れ日本的なるものを生み出してきた日本的翻訳は、「交」の観点としてもポイントだと思いますが、どのようにお考えでしょうか
松岡 まず、日本は長年にわたる無文字社会だったというところが大きいと思います。文字がなかったので、ボーカリゼーションとしての言葉、ボーカルランゲージが豊富になります。ボーカルなもののなかには「書く」「読む」というリテラシーがなく、オーラルで伝え合うぶん、日本人は「交」も早かったのです
漢字は外からきたものですが、徐々に日本のものとしていきました。稗田阿礼の語りを太安万侶が万葉仮名に置き換えて、訓読みや音読みにしていく。たとえば池永の「池」や松岡の「松」は音としてはあったけれども、文字としては、後にあてはめていったわけですよね。そこにトランスレーション、翻訳が出てきます。つまり「あてはめ」が起こる。これも「交」なんです。世界のグローバルな基準からヒントを得て、さらに日本的に組み合わせるということをやったという意味において、文字や言葉の翻訳はおもしろいと思います
同様に仏教や儒教も翻訳しているわけですが、これはまた独特です。空海が梵字まで学習し、かつ日本的に翻訳した「両界曼荼羅」は、インドや中国にあったものから日本的なものに切り替わったものです。さらに浄土教では、源信の『往生要集』の浄土論というのも日本的な翻訳が起こっています。禅は鎌倉時代に入ってきますが、道元の『正法眼蔵』を読むと、中国人には読めない日本的漢文で書かれています。そういうふうに独特な「あてはめ」による交差文化をつくったという意味で、日本的翻訳には画期的なメソッドが潜んでいるように思います
池永 禅問答も重要だったのではないでしょうか。外国のコンセプトを翻訳して問答しあい、「違うけど同じ、同じだけど違う」ことを日本的に翻訳していった。文字をたんに翻訳、トランスレートするだけでなく広がりを与えていったのではないかと思います
松岡 禅問答のもたらす暗示世界と間接的な表現力、「こういうものやろ」と絵にして見せるというのが日本的な翻訳力だと思います
池永 そのように立体的に組み立てる能力を、さらに「天下の台所」時代の大坂には感じます。日本的翻訳という観点からいうと、幕末から明治にかけて、西洋の文学や学問を日本人は一気呵成に翻訳していきます。たとえば「ソーシャル」を「社会」に変え、「エコノミー」を漢籍から経世済民の「経済」を取り出すといったように、もともとの漢籍の知識をプラットフォームに読み取り翻訳していく能力がすごいのではと思います
松岡 そうですね。一言で言うと「和魂漢才」というメソッドです。藤原公任の『和漢朗詠集』は、中国の漢詩と日本の和歌を並べていますが、ある漢詩をひとつ選んだあとに和歌が数首続くこともあれば、和歌が続いたあとに漢詩が1篇でうけることもある。そういったように公任が編集し、藤原行成が書に起こしたものが『和漢朗詠集』なのですが、外と内の間に露地があるように、その和と漢にある間が非常に巧かった。外からきた漢字、仏像をつくる技術、屋根をつくりあげる建築技術といったものを使うけれども、あくまでも和の魂でそれをやる。これが、江戸時代に蘭学が入ってきてからは、「和魂洋才」に切り替わった。和魂漢才のメソッドにあった、間の創造力やリミナルな空間力、それを洋においても行ったわけです。中村正直や西周、福沢諭吉が、「スピーチュ」を「演説」という言葉にし、「ソサエチー」を「社会」という言葉にしたことを、中国が驚いて逆に取り入れ、東洋という言葉や資本という言葉を日本から学んだわけですね。こういったところは、日本のすごいところです。しかし最近のグローバリズムには、和魂漢才の頃から続いてきたものがない

3 ビジネスにみるつながりの重要性

池永 まさにその踝題はビジネスにも関わってきます。天下の台所時代の大坂の商売、「トランスファービジネス」について伺います
綿花を見て着物にしてファッションをつくる、蝦夷の海藻を見て昆布にしてそれを出汁にして上方料理にする、菜種を見て菜種油にして江戸時代の夜を明るくするというように、全体像をイメージしてビジネスフローを組み立てましたが、まさにさまざまな領域で構築されてきた日本的翻訳カが活かされた。西廻り・東廻り航路という水路ネットワーク、インフラをベースに全国から原材料を調達し畿内で加工し全国に流通した、多種多様な情報をトランスミッション的に変換し価値あるものを生み出し、マーケティングで全国にお届けする。この力を現実にしたのは、株仲間や講という同業者組合などの人的ネットワークと、木村蒹葭堂などの多様な人材との交流による学びの場によって商人の力が磨かれたからだと思います
松岡 おそらく秀吉が大坂に凱旋したことは、すごいことだったのでしょう。つまり下層庶民であった日吉丸から羽柴秀吉を経て太閣になり、大坂に来てまちづくりをしたということ。町人の学習意欲や、石田梅岩の「心学」や山片蟠桃の「夢の代」などが加わって、懐徳堂だとかになっていったのも、根本は「誰だって天下一になれる」という秀吉の成功によるところが大きい気がします
また、四天王寺以来のそれまでの大坂は仏都であり、ある意味では吹き溜まった貧困だとか病気だとかがあった。一方で住吉さんみたいに海のネットワークを動かしていた人たちのまちでもあった。そこに秀吉が来たことによって、一から十まですべてを組み変えることが大坂のなかでできると思い始めた。そこに町人や学者、武家たちが手を組んで天下というものをつくるというモデルができた。池永さんの言うトランスファービジネスだと思います。
トランスファーするためには何かを溜めることをしないと駄目だとなったのかもしれません。塩昆布は塩分を溜めるためのものですし、京都の鰊(にしん)蕎麦ではないけれども、蝦夷から来たものを燻製にしておく、あるいは漬物や佃煮にするとか、そういう溜める方法は大坂だという気がします。あの技術にはまさに上方らしさがある
池永 大坂でうまくトランスミッションが機能したのは、先ほどの同業者組合、講的な要素が大きいのではないかと思います。前回のお話にもありましたが、海保青陵の「利」に対する編集力、運命共同体が圧倒的な競争力を生み出した。江戸から明治へのビジネス環境が変化するなか、江戸時代につくりあげた「トランスファー機能」を新たな事業環境にあわせ、強みであった運命共同体、同業同志で信用保証や連帯保証する仕組みをベースに、大阪で近代企業や様式を生み出した                     松岡 それは大きい。江戸はもう少しリアルに決済していると思います。金決済と銀決済の違いもありますが、でも大坂は借用買いや担保、手形、あるいは「まったれ」の精神だとか、信用的なものをつくっていますね。信用経済の基礎をつくったのは大坂だという説はまだされていない気がしますが、私の勘では絶対大坂だと思います

4 モノ、ヒト、コトを運ぶ川と海の文化を豊かにする

                                                         池永 淀川はモノの交易・人と情報の交流の場でした。天下の台所をつくりあげたのは水路ネットワークです。海と船上輸送にて外とつながり、融合して価値創造される川として捉えるべきではないかと思っています。このように、川と湊・港といったネットワークインフラが日本において重要で、モノ、ヒト、コト、情報を交えて流したことでまち・都市をつくりあげました
松岡 日本は長らく鉄砲水に悩まされてきた。今でも豪雨が降ると川が氾濫しますよね。その対策と提防づくりをずっとやっているわけです
 私としては、海の文化を、日本の歴史のなかでもっとおもしろくしてもよかったのになあと思っています。海の神話や童話が少ないし、住吉の神さまはいますが、海の神さまが少ないことがとても残念です。残念だけれども、ではその分が何になったのかを考えると、やっぱり川筋文化なんですね。川の文化に置き換わっている
 ですので、道と川の文化史、経済史、人物史、産物史、コミュニケーションの歴史といったもの、つまり交の歴史をもう一度やり直さないと駄目だと思います。その場合、脚光を浴びるのが淀川水系でしょう。石狩川から吉野川まで、信濃川から筑後川まで、日本中のすべての川におもしろいものが残ってはいますが、まるで海のようなワールドモデルをつくりあげたのは淀川水系だろうと思います。そういう意味では三十石船や伏見人形だけではなくて、網の目のような川筋文化というものを、上方や大阪が持ち出すべきだと思います
池永 北前船のイベントやフォーラムが増えてきましたが、過去のことを掘り起こすだけでなく、現代的視点でその本質とメカニズムを理解し、現代のビジネスに活かしていく必要がありますね
松岡 川や海に、恋や冒険や犯罪といった阿鼻叫喚のドラマがあるというふうになったほうが、文化になりやすい。わかりやすく言うと、ジョニー・デップ演じるジャック・スパロウ船長の『パイレーツ・オブ・カリビアン』やマンガ「ONE PIECE(ワンピース)』のような、ああいうものを川筋、日本海、大阪の間に起こす。それには銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛といった人物をキャラクターとして立てていくといいでしょうね

5 内と外の視点を活かし、新しい情報インターフェイスを


池永 最後に、まちにおけるつながりを考えたいと思います。国はコンパクト&ネットワークを目指しています。人口が減少するなか、地域ごとに駅の周辺に必要な機能・施設を集約していこうとしていますが、世界で一番住みよいまちといわれるメルボルンでは、人をベースにして、20分間で必要な場所へたどりつけるまちづくりを進めています。日本はまだまだ開発主義というか、人が減っているなら施設・サービスを集約したらいいというような考えになりがちで、主体である人が見えていないように思います
 近畿はまさにコンパクトです。大阪から40キロほどで京都、神戸、奈良まで入ります。外国人旅行客は、たとえば大阪に滞在して京都、奈良、神戸から滋賀、和歌山をそれぞれのストーリーを描いてエンジョイされている。ロングステイで滞在する人たちも増え、外国人のほうが多様な近畿の使い方というか、近畿の地域性がわかっています。さらに最近は在住外国人や留学生も増えてきているので、意図せずに大きく多種多様、多面的な社会に向かっているのかもしれません
松岡 私の提案としては、ふたつあります。ひとつは、ヨーロッパでも東南アジアでも台湾でもフィリピンでも、アメリカ人でも中国人でもいいですが、そういう人たちに参加してもらい、彼らが見た大阪、関西、上方づくりをブランディングすること。かつて、ブルーノ・タウトやジョサイア・コンドルが日本のよさを広めてくれたように、彼らには日本を再発見する力があるからです。ただシナリオを自由にさせるのではなく、上方なりにそれを受け止めたインキュベーションの装置をつくったほうがいいですね
もうひとつは、国内の日本人が大阪を訪れたときに抱く違和感と同化感、おもしろいと思うことと退屈だと言うものを整理すべきです。これは、例えるなら、大阪の寅さんをつくるということだと思います。『男はつらいよ』は、日本各地にエトランゼの寅さんがまるで移民のように訪れるというドラマですよね。どのまちも知らないけれど、そこにあるものや人と出会うことで、ドラマが起こる。あれが、私は必要だと思います。もう一度日本人の大阪エトランゼ、「大阪よう知らん」という人が大阪に来たときに起こすこと、彼らに大阪に出会ってもらうことをやったほうがいい。
 どちらも言っていることは同じで、国内外の両方の目が必要だということです。
もうひとつ、電子ネットワークも重要です。インターネットと大阪、上方を考えたほうがいい。今はみんなそれでアクセスをしてくるので、独自の上方インターフェイスをつくる。昔の地図や舟遊びの川堤の図なども、みんなインターフェイスですよね。「こういうふうになっています」というのを電子ネットワーク上で見せられる人が出てこなければ。ですが、グーグルマップの大阪版では駄目ですよ。大阪なりのインターフェイスであり、トランスファーフォームであること。それを大阪がつくったら、世界中からアクセスしてきます。それは、ずっと気になっていたことです
 
池永 国内外の目に学び、過去と現在を学び、組み合わせることこそルネッセです。大阪・近畿エトランゼに取り組んでいきたいと思います

(第3回(最終回) 「「耕」―文化を問い直す」につづく)

https://www.og-cel.jp/search/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/02-07.pdf

(「情報誌CELVol.117」・発行大阪ガスエネルギー・文化研究所・編集 平凡社)


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