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日本のドラマで「歩道橋」と「横断歩道」が多用されるわけ。

2年ほど前、次のような記事を書いたことがあります。日本のドラマでは「あえて言わない」が鍵である、と。愛の告白から病気に至るまで、とにかく人に黙っている。そして、病室の外の廊下などで偶然に耳にした会話によって真実が明らかにされるのです。ちょっと古い建築での設定だと、障子を通した向こう側の会話を盗み聞きして「真実を知ってしまう」となります。

あれから2年を経て、もう少し、このテーマを掘り下げておこうと思いつきました。アクセス状況をみると、相変わらず、コンスタントに読んでいらっしゃる方がいるようなのです。今回触れるのは舞台設定にある傾向です。

歩道橋と横断歩道が多用される、という点です。

歩道橋の階段がドラマで出てくると、犯罪系であれば「主人公を突き落とす」舞台に使われます。恋愛系であれば「主人公が躓き、下に転げ落ちる」道具として使われます。いずれにせよ、次の展開は病室が舞台になります。

恋愛系の主人公が歩道橋で躓くのは、何らかの仕事上の問題を抱えて注意散漫になっている、病気を抱えているが周囲には黙っているが急に意識が低下する、などの理由からで、本人は気を失い救急車で病院に送られ、恋愛関係が想定される相手方が病室に駆けつけます。

そこで意識が戻り会話ができるまでの時間があり、その後、それまでのぎこちなかった関係が愛の確認によって大幅に修復されます。

もう一つのパターンが、歩道橋ではなく、横断歩道です。主人公が注意散漫か体調不良で意識朦朧とした状態で赤信号のところで渡ろうとし、走ってきたクルマにぶつかるか(この場合も、会話は病室)、恋愛関係が想定される相手方(多くは男性)が機転をきかせて間一髪のところで女性を救うことで、お互いの関係を自覚します。

これを読んでいらっしゃる方も、「ああ、あのシーンね!」と思い出す事例が多いと思います。それで歩道橋 or 横断歩道→病室での会話 という一連の流れがなぜ多いのか?ということを考えました。

ぼくが思うに、これは事故という不測の事態が発生しないと、「あえて黙っている」という膠着状態を壊すことができない、または壊しにくいとの思考が脚本家か演出家に強いのではないか?ということです。

更に言うと、事故のような偶然要素を頼るからこそ、逆にスマホでの会話の無断録音や録画のソーシャルメディアへの投稿が力関係を劇的に変える道具としてフォーカスされるのです。イマドキのメディア環境を写し込んでいるだけではない、と思うのですね。

これらがストーリーを急展開させる手法として定番化していることへの不満もありますが、もう少し別の切り込みで「あえて黙っている」を打ち破っていく文化をテレビドラマはつくっていくタイミングではないか、とも思います。

というのも、「たかがドラマ、されどドラマ」は一つの真理で、ドラマにある行動パターンの変化が実生活の行動パターンの変化を誘導する要素がないとはいえない、と感じるからです。

かつてのような大きな影響力がテレビドラマにはもはやないにせよ、日常生活に澱んだロジックを意図的に組み替えることを歓迎する視聴者はじょじょに増えていると期待したいです。

冒頭の写真©Ken Anzai


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