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現代日本がめざすモデルはどこ?―さまよう日本(上)

教員「残業代」、50年振りに前進――恒常的に発生する残業をなんとかしないといけないというのは、その通り。しかしそれで教員の仕事における課題が根本的に解決するのだろうか?日本の教育はそれで解決するだろうか?

前提条件を変えないから、こうなる

心掛けている仕事法がある
仕事をしていると、問題が日々発生する。目の前に起こっている、その「問題」が真に解決すべきことか?表面的に見える問題(トラブル)を解決したとしても、目に見えない真の課題(プロブレム)を根本的に解決しないと、問題がおこる。何度も違った形でおこる。だから問いかける、その問題の原因はなにか?その本質はなにか?いま解決しようとしているのは

問題なのか、課題なのか?

トラブルとは現象として目に見えている問題。プロブレムとはトラブルを生じさせている原因・本質である課題。問題は目に見えるが、課題は目に見えていないことが多い。このトラブル(問題)とプロブレム(課題)を峻別して、掘り起こした課題を解決しないとビジネスはまわらない

note日経COMEMO(池永)「怪しからん日本の行方④(最終回」)

日本の教育は、明治維新以来150年、欧米に追いつくため、欧米のやり方を吸収して、それを覚えさせ、上手に真似できる人材に育てあげ、社会に送り込んだ。敗戦後も、明治維新後のモデルを変えなかった。いや、それ以前よりも、さらに米欧の工業化モデルの真似を一所懸命におこなった

そして、成果がでた。驚異的な高度経済成長を果たした。モデルの国々から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持て囃された。有頂天となった日本は過剰な真似でうまくいった成功体験を変えなかった

しかしモデルであった米欧は工業社会からデジタル社会に変わっていたが、日本のモデルは米欧の昔のやり方のままだった。前提条件を変えなかった。気がついたら、日本は世界の流れから取り残された



1  めざすものが外にある

明治維新の前に、日本よりも先進的な文明スタイルを持った国があることに気づいた。薩長クーデターを起こそうとする時点で、イギリスやアメリカの方が科学技術が進んでいた。彼らには、徳川幕府の政治体制を変革して、新しい文明国をつくり変えるために

クーデターをするという大義があった 

明治維新から日露戦争までの40年間に、士農工商の枠が外れて、新たな学校をつくり、いろいろな新たなモノ・コト・サービスを生みだした。欧米から、学問と技術を吸収して、会社という形態をつくった、銀行や工場をはじめとするビジネスタイルを怒涛の嵐のように真似してつくった

明治維新は約700年つづいた幕藩・武士体制をリセットした。維新政府は西洋に人材を派遣して技術を学ばせ、西洋から技術者を招き、西洋文明・技術を怒涛のように移入し消化し、日本仕様に翻訳して、近代産業・社会を瞬く間に建設した。明治黎明期の混乱のなかから、世界にひとつしかない和洋折衷の明治モデルを確立した

note日経COMEMO(池永)「最近の若い者はすぐ辞める」というのはなぜ?


明治維新という名のクーデターで

外の進んだものを取り入れる
という環境が突然できた

日本の外の方が進んでいるということを知りながら、江戸・徳川幕府はそれを統制したり、独り占めした。ましてや士農工商の身分制度があった。つまり江戸時代は、外の進んだものを自由に取り入れるという環境ではなかった 

真似る見本は、内(ウチ)だった

明治維新で、農民だった人が紡績業をおこしたり、商人が近代的なカンパニーをはじめたりというように、身分に「制約」がなくなった。制約がなくなり、1人1人の主体がラジカルからポジティブな方向に奮闘努力するようになった。そのときの手本、モデルは

国内ではなく、欧米

日本は 千年以上つづいたモデルだった中国から欧米に変えた

2 時代は予期せぬことをおこす

時代は、予期せぬことをおこすことがある
薩長の元勲や志士が想っていた維新のイメージとは違うことがおこった。戦国時代につながる特定の人たちが独占していた世界がリセットされ、幅広い領域で自由になった。それで、それぞれの個が持っていた

「ポテンシャル」が
花開く環境がうまれた

昔は勉強できても、女性は嫁に行くもの、小学校を出たら嫁に行くもの、家のなかにいるものとされ、残念ながら女性の「制約」は戦後まで大きく変えることはできなかった。しかし男性は「末は博士か大臣か」と言われ、たとえ農民や職人や商人の家に生まれても、個々人の能力・ポテンシャルに応じて活躍できる機会がうまれた。才能・実力・努力があれば、いくらでも道が拓けた。ある面では、現代以上の実力主義だった。このようなとてつもない大断層がおこった

それが、薩長クーデターの
予期せぬ成果だった

明治の元勲や幕末の志士とか言われている人のことを研究すると、なぜその人が貴族になったか、よくわからない人が多い。明治になって、現在の金額に換算すると何十億円もの財をなして、クーデターでひっくり返した幕府や藩主の財産を手に入れた。そんなヒストリアは共感できない

そんな物語よりも、現実の社会において大切な変革が明治維新でおこった。明治維新で封建制を強制終了させたことで、タガが外れて、社会・産業のいろんなところに潜んでいた

ポテンシャリティが一気に花開いた

3 明治は若かったが

明治維新のときの各リーダーの年齢
西郷隆盛 40歳 ・ 勝  海舟 45歳
木戸孝允 35歳 ・ 大久保利通 38歳
岩倉具視 42歳 ・ 後藤象二郎 30歳
伊藤博文 27歳 ・ 井上  馨 32歳

このように明治維新に関わった人たちは若かった。しかしこの時点でパッと時間を止めたとして、その時点の薩長の元勲と言われている人たちよりはるかに優秀な人は何万人もいた。では、なにが薩長の元勲と何万人の優秀な人材の差を分けたかというと

武力闘争の武器への
接触があったかどうか

グラバー商会の斡旋で土佐を脱藩した坂本龍馬が売り歩いたアメリカの南北戦争のピストルやライフルを手に入れられたかどうかの違いが大きい。薩長の元勲に志や能力があったかがごとく喧伝されているが

そんな美しい文脈ではない 

彼らが武力、武器を手にできたから、鮮やかな徳川幕府転覆のクーデターが成功できた。その時点での日本には、彼らよりも優秀な人は何万人もいた
 
吉田松陰の話を短期間だけ聞いたということを売りにして出世した人と違って、小さい頃から寺子屋に通い、藩校や私塾で漢籍、長崎や大坂に遊学して洋学を苦学した人は山ほどいた。薩長の志士よりも、はるかに志は高い人はどっさりいて、現に福沢諭吉や渋沢栄一のような明治の元勲とは次元が違う人が続々と登場した
 
明治維新の立役者としたリーダーたちは真の指導者と言える人ばかりではなかった。単純に「武器に接触」があったかそうでなかったかの違いだけであった。 指導者たる学びも、クーデター後の社会展望も持たず、シナリオも準備していなかったので、明治維新後の社会で際立った活躍もできていない
 
明治維新から150年経った現在、明治の元勲たちやかれらにつながる人たちの評価が変わりだしている。近年のテレビの大河ドラマや歴史番組でとりあげられる主役、物語が大きく変わりだしている

たとえば岩倉具視を評価する現代人はどれだけいるだろうか?幕末に彼が行った真実が明らかになり、彼はお札から消えた。伊藤博文も功利だったが、歴史の蓋を開けたらイギリスの傀儡だったことが明らかになってきた。だから彼もお札から消えた。つまり

歴史的評価に耐えられる人しか
依って立てなくなる

むしろ、明治維新の最大の成果は、タガが外れた時に、ポテンシャルを発揮した、それで産業や科学や日本文化で傑出したパフォーマンスを果たす人がたくさん出たこと

翻って、明治維新を正しく評価しよう
という時代の気分になりつつある

クーデターは容認できない。戊辰戦争に登場したライフルは、薩長などが金をだして買ったものだった。それを買ってお金を決済するのに、日本は銀など大切な資産を海外に流出させた。国富という観点からいえば、明治の初期は、完全に海外流出だった。海外流出を進めたのが、薩長クーデターの首謀者たちだった
 
では、そのようなことが現代におこったときに、傑出したポテンションのある人が実現しようとする見本・モデルがあるだろうか?現在日本に、明治維新時代のような欧米というモデルがあるのか?

日本はモデルに追いつき、追い抜いた
日本は学ぶことはないと思い込んだ

私たちにはもう学ぶ国はない。そう考えたとき、一気に落ち込んだ。まわりの空気がどんどん変わっている。「下」と思っていた国が、前にいる。モデルとしてきた国ががらっと変わっている。日本はどうなっているのか?どうしたらいいのか?次回に考えたい

本年1月から開催してきた「未来を展望して、未来を開拓するための戦略を考える」セミナー(5月22日(水))も、今回で最終回となる。AI専門家の大阪大学の八木教授と東京大学の大澤教授と、社会文化研究家池永の徹底討論。これから社会はどうなる?どうする?都市・郊外はどうなる?どうする?ぜひご参加ください

「未来を展望して、未来を開拓するための戦略を考える」セミナー


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