手仕事を社会のなかにどう再構成するのか?ー福岡県八女での経験(日本滞在記2)
日本滞在記の2本目です。
1本目は倉敷の大原美術館で感じたこと、考えたことを書きました。「西洋絵画の見方を変えられるのか? ー 倉敷の大原美術館で考えたこと」です。
今回は福岡県の広川町と八女市で経験し、考えたことを書きます。下の記事にあるように、伝統工芸は「どう継承させるか?」が地域再生の一つとして語られることが多いです。しかし、まずもって「人の手仕事を、社会のなかにどう再構成するか?」が根本のテーマではないかと思います。
広川町で藍染を体験してみて思ったこと
広川町は佐賀との県境に近い場所にあります。そこに藍染絣工房があり、天然藍染の手織りを手掛けています。トップの写真は、蒅(すくも)を発酵させた藍液です。セラミックの容器が土のなかに埋まっています。
藍染のプロセス、藍染の現状、この地域のことなどを伺い、状況が決して楽観的ではないことを知ります。そして、実際にしゃがみこみ、藍液のなかに布地をひたし、それを絞り、またひたすことを何回か繰り返します。
職人さんに言われたのは、「まったく同じようにやっても、同じ色になるわけでもない」ということです。同じ色やグラデーションが、計画した通りにはならないし、何枚も均一に再現するのは無理なわけです。
これはクラフトや自然素材を扱う世界、それこそ人の教育でも通用する台詞です。極めて当たり前の内容なのですが、自ら布地を両手でもち、繰り返して藍液につける動作を繰り返しながら、自分の意思が及ぶと考えること自体が不自然であると、まるでぼくの手が感じたのです。
何らかの均一なアウトプットを得ようと思うのは不遜である、とも思いました。
Made in Italyやラグジュアリーについてぼくは多くを語ってきて、頻繁に「手仕事がいかに評価されるか」と強調してきました。それは人の尊厳や創造性に繋がるものだと言葉にしてきました。このことを「自らの手で感じた」としゃがみながら思ったのです。
この8年間、手仕事の実例としてウンブリア州ソロメオにあるファッション企業、ブルネロ・クチネリについて何度も書き、話してきましたが、工房でユニバーサルな点とローカルの点、これらの両地点から発した矢がちょうど重なり合った気がしたのです。
この体感は八女市の古民家を改装した宿でも続く
ワークショップの場のあと、八女市内に向かいます。Craft Inn 手 という古民家を改装した宿屋で宿泊するためです。実は、藍染のワークショップも、この宿を運営しているUNAラボラトリーズの企画ものです。サイトに「九州の手仕事を体感する宿」とありますが、文字通りです。
藍の部屋、竹の部屋、和紙の部屋と手仕事を共通コンセプトとしながら、それぞれ違った素材に焦点をあてています。その内容はサイトをご覧いただいた方が良いでしょう。ここでぼくが書くべきは、その説明ではなく、手仕事を経験した後、手仕事をコンセプトにした空間で何を思ったか?です。以下です。
あらゆるものは、またはあらゆることは、全体的な構図でしか進まないが、その構図は決して自らが輪郭を描けるものではない、ということです。輪郭がとれたと思うのも、そのときの幻想か独断です。しかし、その一瞬にえた確信をネガティブに捉えてはいけないことも、同様に真実です。
藍液が入っている壺は固体ですが、そのなかでおきている発酵は誰にも「読めない」。宿屋の空間のなかでビールを飲みながら、この身体感覚が継続しているのを実感しました。もちろん、良いバランスで旧材と新しい工夫が表現されている効果はあるでしょう。だが、大きな前提として、ここは大量の工業製品が中心を占めているのではなく、多くの手仕事のなかに、要所要所の機能を工業製品が補完するカタチで入っている。
これがまさしく、コンセプトと情念の割合と呼応するかのようなのです。我々は、工業製品で情念を語ることもできますがー例えば、カーエンシュージアストの語りーそこには相いれない無理も多い。
その無理はできるなら、徐々に排除していきたい。そのような気持ちになったのです。あっ、これは藍染経験が引っ張っている、と同時に思いました。いわゆる歴史的遺産の継承としての安心感や価値の重さとは、少々距離のある想いです。
今まで言ってきた日欧差異を挙げると
ここで、手仕事について、これまで日伊の差としてあげてきたことを紹介します。
例えば、ドイツの繊維の同じ機械を日本とイタリアで購入します。その場合、日本の企業は「これで100%自動化しました!」とプライドをもって説明します。一方、イタリアの企業は「10%の工程は手作業の部分を残し、オリジナリティの源泉とします」と確信をもって話します。ご存知のように、国際市場では後者の商品の方が高い値がつきます。
3Dプリンターがあらゆるところで活躍しています。インテリア雑貨にも進出が激しい。今年6月のミラノデザインウィークを見ていても、その実例は多くあります。ここにも違いがあります。日本の企業の方は「これは3Dプリンターで、実現しました!」とアピールする傾向にあります。他方、ヨーロッパの企業は「基本のフォルムは3Dプリンターでつくり、表面のセラミック仕上げは手でやりました」と静かに語ります。そして、実際、後者の方が値が高い。
このようなエピソードをビジネス文脈のケースとして話してきたわけですが、そろそろ違った文脈でも話す必要があると、今回の旅で思い始めました。
それぞれの地域にある習慣や行動パターンそのものが、そこに住む人たちの文化アイデンティティに関わり、そのために短いサプライチェーンに合理性が強くあるとも言えます。ただ、ぼくが今回、これから考えたいこととして書いておきたいのは次です。
時間は横に流れるのか?縦方向ではないのか?
旅から戻り、湘南地方のある寿司屋で大学時代からの先輩であり友人と話しこみました。
「西洋の文化での時間は左から右への直線で表されることが多い。しかし、東洋の仏教思想では、この今しかない。動きのイメージとしては縦方向だ。この今があり、それが泡となる」と彼は話します。
このセリフの前にあったのは、「何かを知っているなど、実はたいしたことではないのかもしれない。すべては直観で判断するしかないのだ。考えても仕方がない」です。ぼくは、ぼくなりの文脈でこれに近いことを思うことがありますが、時間を縦でイメージすることに、ハッとしました。
そして、フランスの歴史家であるフェルナン・ブローデル(1902- 1985)の論を思いだしたのです。彼は『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』で以下を書いています。序論をぼくが要約した一部です。
ブローデルの3つの層はよく知られた考え方です。横に長く続きながら変化するユニットとみるのかどうか、これが友人の話とも絡んでくるでしょう。
手が全体を動かす
ただ、第一のポイントは、農業や職人の手仕事がはいる下層が、全体の構図をつくるベースであることです。
この下層をさまざまなテクノロジーが支えるにせよ、視点と視野の基礎に「手でわかる」「直観でわかる」ことがあり、それが判断や決断の基準にならないといけない。
ブローデルは別の章で、生活雑貨分野は人類史として「惰性」の域にあると記していますが、惰性とも見られるスピードでしか全体は動かないとも言えるでしょう。
「手でわかる」「直観でわかる」とは、簡易で即席のアプローチと近代以降思わされてきた感があります。しかし、実際は逆です。
より時間をかけてきた勝負との性格がそこにはあり、より深いところに触れ、確信もさらに強い。だからこそ、全体を動かす力があるのです。
手仕事復権と、その社会への再構成とは、このような関心と被ってくるのでは、と思います。