「クラシック音楽」のゆくえ。
ぼくはクラシック音楽についてまったくの素人です。ただ、奥さんが東京の音大のピアノ科を出ており、ミラノでも長い間、イタリアの子どもにピアノを教えていたので、クラシック音楽が会話の話題になることも多々あります。
また、イタリアに住み始めはじめ頃、奥さんはイタリア語向上とイタリアの音楽事情を知るために、日本の月刊クラシック音楽雑誌に掲載するイタリア人の音楽評論家のコンサートレビューを日本語に訳していました。そう5-6年、毎月、そのために彼女はかなり憂鬱な日々を過ごすはめになりました。そういう仕事、全然好きじゃなかったので 苦笑。
時期でいうと1990年代の前半から半ばです。
その頃、ぼくはよく「クラシック音楽というジャンルは30年後くらいに、どうなっているのだろう?」と奥さんによく聞きました。というのは、前述のイタリア人音楽評論家は現代音楽への関心が強く、従来のクラシック音楽界が「ステレオタイプを求める層」の欲求に従い過ぎることを嘆く文章をよく書いていたのです。
このエピソードを思い出したのは、今日、日経新聞の欧州総局長である赤川省吾さんが書いた記事を目にしたからです。30年ほど前のクラシック音楽をめぐる状況に、変化の兆しはあったのだったのだろうか?と。
今年の夏、ドイツのバイロイト音楽祭でのことです。
「女性の指揮者」というところが注目点になっています。
男性指揮者が圧倒的に優位であったおよそ150年の歴史に2021年、変化が生じたのです。リーニフ氏自身、その当事者になったのが俄かに信じられなかったと語っています。この世界をよく知る悲観的な人が、近くにいる父親であった、というのが皮肉です。
オペラの女性歌手はもとより、オーケストラでも弦楽器など女性演奏者が普通の存在になったにも関わらず、作曲家や指揮者は男性が多いのです。伝統と格式のあるバイロイト音楽祭で、その壁を超えたとリーニフ氏は感じた訳です。
バイロイト音楽祭はワーグナーの曲だけを演じる場で、この音楽祭の総監督はワーグナーのひ孫であるカタリーナ・ワーグナー氏です。その彼女が、次のように語ったそうです。
残念ながら、この変化が一気に進むわけでもなく、その壁について次のような説明があります。
ここで、ふと気が付きます。奥さんが1990年代に付き合っていたイタリア人音楽評論家は、現代音楽を強みとする女性だったのですね。なるほど、あの彼女は、何らかの兆しを目にしやすい環境にいたからこそ、旧弊なところにより目がいっていたのだろう、と思い至ります。下記、豪メルボルン大学のビンセント氏の指摘が、そのまま30年前のイタリア人音楽評論家の実感だったのでしょう。
赤川省吾さんは、この「ステレオタイプ」について、かなり辛辣な表現をもって批判しています。多用される「伝統」や「文化の継承」と「偏見」が実は紙一重である、場合によっては裏表の関係にある、ということになります。
ここには、「政治的正しさ」を欧州は欧州なりに求める動機がある、と解説します。過去への強烈な反省なしには、新たな世界観をつくりにいきにくいのが「今」です。
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一昨日、次の記事を書きました。「文化アイデンティ」と「歴史の再解釈」の2つが、お互いに絡み合いながら新しい世界観、または文化をつくっていくタイミングであり、それはビジネスにおいても鍵であると指摘しました。言うまでもなく、これは欧州に限らず、日本においてもあてはまります。
こうした状況推移も見据えて「新しいラグジュアリー」の3か月の講座を来月からスタートするのですが、上記の赤川省吾さんの記事を読みながら、ここで議論されていることが即、全体の方向転換を促さないかもしれないが、この変化への「潜在的なエネルギーのありか」に気づけないと、とんでもない火傷を負うだろう、との確信は増してきました。
因みに、冒頭の写真は9月はじめ、ウンブリア州のソロメオ村で行われたブルネロ・クチネリの誕生日パーティに参加したときの一コマです。