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すべては少数の「体験」と混沌からはじまる 〜メタバースは死んだか?

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はメタバースのことを含めて、「すべては少数の体験と混沌からはじまる」というお話を書きたいと思います。


「メタバースは死んだ」論調から抜けている「体験」のこと

先日出したプレスリリースでも引用したのですが、

「メタバースは死んだ」という論調があります。

「メタバースは死んだ! Fortnite、Minecraft、Roblox、PUBG Mobile、Sandbox、VRChatの月間アクティブユーザー6億人が、リアルタイムに3Dで一緒にその死を悼むことができるよう、オンライン葬儀を企画しましょう」2023年5月Epic GamesのCEO・Tim Sweeneyはそうツイートしました。

こうした論調には、Meta社の「ビジネスメタバース」の壮大な失敗やweb3への(投機的なものを含む)過度な期待、その後のAI旋風などの要因があると思いますが、とにかくメタバースは「死んだ」とすら言われているわけです。


と、いっても。Tim Sweeney氏が言うようにユーザー数が減っているわけではないんですよね。むしろアクティブなユーザー数は増えて続けている。それなのに「死んだ」と言うビジネス大人たちに対しての痛烈な皮肉が、彼のツイートには込められています。

中にいる人にとってはまったく「死んだ」りしていず、メタバースの存在感は増しています。「死んだ」といっているのは外側の人たちです。そもそも、外側から「メタバースは儲かる」と勝手に盛り上がって過剰な期待をして、実際にそこで楽しんでいる人たちの存在や体験を無視して今度は「死んだ」と言っているわけです。


現場での「体験」の大切さ

僕も大企業で新規事業をしていた経験が長いので、「ビジネス大人」な感じに外からの視点になりがちな罠はよくわかります。

大企業では「これからはメタバースらしいぞ!」「我が社もメタバースでなんかやれ!」と号令が下りてきたりするのですが、それを企画している人はほとんど実際に体験もせずにサービスをつくっていたりします。

「現場」を体験しないで机上の議論で施策を立ち上げてしまう。メタバースでの「現場」はバーチャル空間ですが、そこでの「体験」をちゃんとやっている大人は想像以上に少なかったりします。数回体験したくらいでもまだ良い方ですが、本当は毎日数時間、2週間ほど体験し「暮らしてみる」くらいまでいくと内側からの視点が得られて見える世界が変わってきます。

「現場の体験」抜きの企画は、ユーザーが求めているものとは全然違うものをつくってしまいます。

そしてさらに、最初から「お金になるか?」というビジネス的な視点から入ってしまうと、本来真ん中にあるべき体験がますますおざなりにされてしまうのです。


インターネットも最初から「儲かった」わけではない

テクノロジーについては、有名な「ガートナーのハイプサイクル」という考え方があります。これは、新しいテクノロジーはいったんバブル化して幻滅期を迎え、そこからやっと本格的にスタートするという流れを示しています。

1.黎明期(技術の引き金、Innovation Trigger) - ハイプ・サイクルの最初の段階は、「技術の引き金」またはブレークスルー(飛躍的前進)から始まる。新製品発表やその他のイベントが報道され、関心が高まる。
2.流行期(過剰期待の頂、Peak of Inflated Expectations) - 次の段階では、世間の注目が大きくなり、過度の興奮と非現実的な期待が生じることが多い。成功事例が出ることもあるが、多くは失敗に終わる。
3.幻滅期(幻滅のくぼ地、Trough of Disillusionment) - 技術は過度な期待に応えられず急速に関心が失われ、「幻滅のくぼ地」に入る。そしてメディアはその話題や技術を取り上げなくなる。
4.回復期(啓蒙の坂、Slope of Enlightenment) - メディアでその技術が取り上げられなくなった一方、いくつかの事業は「啓蒙の坂」を登りながら継続し、その利点と適用方法を理解するようになる。
5.安定期(生産性の台地、Plateau of Productivity) - 広範に宣伝され受け入れられるようになると、技術は「生産性の台地」に到達する。その技術は徐々に安定し、第2世代、第3世代へと進化する。その台地の最終的な標高は、その技術が広範に適用可能かあるいはニッチ市場のみかによって、様々である。

面白いのはこれがほとんどのテクノロジーに当てはまることで、いま世界を席巻しているAIも、何度かのブームと冬の時代を経て今のように実用的なメリットがあるところまでは数十年かかっているわけですよね。


今では現代社会の基盤となっているコンピューターやインターネットですらもそうで、世界をかえる!と期待された後、「すごい技術だと言われているけど対して役に立たない」と幻滅期もありました。今のVR機器のように、話題になったのでPC買ったけど全然つながれることなく、ホコリを被っていた、という家も多かったでしょう。

日本でも90年代にはどちらかというとインターネットもサブカルやオタクの趣味という感じで、ビジネスに役立つという風に実装されていくのは2000年を超えてからでした。

テキストサイトとか「おもしろFLASH倉庫」とかで盛り上がるネット民。でもビジネスの視点から見れば、結局は趣味レベルのコンテンツ制作ばかりでお金にもならない、という冷ややかな視線もあったでしょう。


しかし、初期はむしろ、そこにいるユーザーたちが、お金にもならないのにひたすらサイトを作ったり、コミュニケーションを取ったりする熱量の方が大事ですべてはそこから始まります。そこに時間を投下する、そこに住んでいる人々がいる。そういう熱量が次第に広がり、多くの人々が使うようになり、多くの人々が使用することでやっと「役に立つ」とか「儲かる」が生まれてきます。

まずはユーザーがそこに住んでいて熱量が生まれているかどうかが最も大切なのですが、熱量というのは外側からでは分かりづらいものでもあります。中にいる人々が感じる空気やエネルギーは、中と外からでは、その見え方が全く違うのです。


初期の「体験」や熱量は、深いが、狭い

もっといえば、「初期の熱量の高い体験」は原理的に少数派になりがちなところもあります。


新しい価値の広がり方について「アート思考」「デザイン思考」「ロジカル思考」のフェーズの変化として話すことがあります。

まず左側にはロジカルな課題解決、みんなに見えるゾーンというのがあります。これはある意味では先に述べたような「外からみている」状態で、一般論的な段階でもあります。新規事業のニーズ発掘としてはその次にデザイン思考がやってきました。これはエスノグラフィなどの手法でまだ他の人が気づいていないような潜在的な課題の発掘をするため、ある種共感のセンスのようなものが必要です。


アート思考の領域は、個人的で深い体験です。ロジカル思考の領域が「理解できる(共通理解)」で、デザイン思考は「あ、わかる〜(共感)」だとすると、アート思考のゾーンはその人にしか見えていないような、ほとんどの人にとって「分からない」領域でもあります。「10人中9人がいいとおもうものより100人に1人の熱狂を」と言われたりしますが、起業家はしばしば周りの多くから「分からない」と言われる事が多いでしょう。


この伝わらなさ、分からなさをたとえて、アート思考は「詩」、デザイン思考は「コピーライティング」、ロジカル思考は「説明文」と言ったりします。「詩ってよくわからないんだよね…」という人が大半で、説明文のほうが圧倒的にわかりやすいわけですが、詩の言葉のほうが体験的な強度があります。

それは深いけれども狭い。まだ共通言語になっていないから、理解や共感が難しい。

最初は少数の人の狭いけれども深い「体験」があって、徐々にフェーズが移行します。デザイン思考に移ると一部の「わかる」人に共感されはじめ(アーリーアダプター)、ロジカル思考へと進むと共通理解(マジョリティ)になります。

体験の熱量が高いのはアート思考の段階で、深い体験は個的なものなので、広く伝えるのは難しいところがあります。ロジカルな説明は広く伝わるけれど、熱量は低い。(集団催眠的な熱狂はまた別の話ですが)

例えば、初期の熱量が高いユーザーコミュニティでは、外から見ていると何が良いのかよくわからない、みたいなことがある。中で遊んでいる人たちは、新しい体験をうまく説明する言葉を持たず、「よく分からないけどなんかいい」という感じ。

また、テクノロジーは初期にはどうしても「利用コスト」が大きい傾向があります。VRChatについてもゲーミングPCや機器は高いしヘッドセットは重いし、blenderとかunityとか使わないと遊べないの…などなどハードルが高いため、利用者は少数です。しかしこうしたハードルを超えてでも遊ぶ人達がいるということそのものが熱量の証左です。逆にいうとはたから見ると「なんでそこまでしてやるのかわからない」と言われたりする笑

このように、初期の深い体験は言葉で伝えづらいものです。そのため構造的に少数から始まるしかないところがある。


フェーズの変化による広がり

サービスや体験は、フェーズの移行のプロセスがあります。

これをハイプ・サイクルと重ねてみましょう。

すると、「流行期」の過剰な期待は、マス層が飛びついているせいとも言えます。すでに述べたようにこれは大体「外側」からしかみていず、体験を伴った本質的な価値受容ではないため、結果としてこの後には幻滅期がやってきます。

そしてそうした幻滅の中で、一部でも熱量のある体験が根付いていれば、また徐々にそれが広がって一般的に認知されるフェーズへと進むのです。


こうした普及期へのフェーズの変化は本の帯が変わっていくようなものです。当初は名が知られていなくても一部の人々が熱狂的に読んで、界隈の「わかってくれそうな人」にだけおすすめし合うような本があります。この段階ではニッチですがそういう「わかる人」が増えてくると、やがて「○○氏推薦!」というような帯がつくようになります。するとその共感者=フォロワーが読むようになり、最終的には「100万部突破!!」という帯に変わって、マス層にも読まれるようになります。


もちろん、全てが必ず広まるというわけではありません。特定の少数の人々に熱狂的によって支持されたけれども消えていったり最後までニッチで終わるものもあります。ただ、時代の大きな流れとして考えた時に逆らっていないものは、幻滅期を経てもいずれは主流になっていくでしょう。

期待や幻滅を繰り返しつつも生活に占めるメタバースの割合が増えていくことはメガトレンドとしてはまちがいないでしょう。そして注がれる時間が増えるとますます多くのコンテンツが生まれ、事例が増えて「啓蒙の坂」を上り、「生産性の台地」へと至り、有用で儲かるフェーズにいたります。

(ちなみに、「メタバース」という言葉は広いので、2つのハイプ・サイクルが混同して話されがちなところもあります。VRでの生活はまだ「啓蒙の坂」の手前でしょうが、フォートナイトやZEPETOなどは基本「非VRのメタバース」で、ここはすでに「生産性の台地」にかかりつつあります)


「メタバースは死んだ」と言われようと、その中にはそこに住んでおり、(利用コストが高いにもかかわらず)日々あたらしい遊び方を自ら生み出しているユーザーの熱量があります。2000年より前のインターネットのようにまだ「生産性」はないように見えるかもしれませんが、死んでなどいないのです。


住民と混沌

これはまたいつか書きますが、僕はメタバースにおいて重要なのは目新しさではなく「居心地」や「住む」という感覚だと考えています。

そこに長い時間住み、物理の社会とはちがう存在性をもって、何かを生み出している人たちがいること。そこには有用ではなくとも、むしろ時には「才能の無駄遣い」と思えるほどの時間を投じてよくわからないものが生まれていたりする。

そのカオスが面白い。僕はこの混沌とした熱量が一番面白いと感じています。

初期の体験者の体験は、少数でも一番濃く、その熱量からすべてが始まります。

外からはわからないような初期の深い体験。それがメガトレンドとして広がるのかは数年後に答え合わせをすることになるでしょうが、メタバースに限らず内側でちゃんと「体験」せずに「死んだ」という人の言葉にはあまり惑わされないほうがいいのではと思っています。

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