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 Potage代表取締役 コミュニティ・アクセラレーターの河原あずさです。ファシリテーター、コーチとして、様々な組織や個人の思いを引き出して言語化するプロセスをお手伝いしています。

 今回の日経COMEMO編集部からのお題は「パーパス」です。リモート前提の世の中に移行するにあたり、組織への帰属意識が問われる中で、求心力の礎となるような「パーパス」の言語化が社会的に注目されているようです。特に組織の外に意識が向かう「遠心力」が強く働く変化の激しい状況の時ほど、組織に意識が向かう「引力」になりうる価値観の提示が組織にとって大事になるわけです。

 というわけで様々な企業や経営者が「パーパス経営」に注目しているそうです。実に、何が起きても変じゃない不確実性あふれる今の時代らしい概念だと思います。

 経営者視点のこちらの記事に「なるほど」とうなづく一方で、この「パーパス」という概念がどれだけ「一般のビジネスパーソン」に伝わっているのかというと、十分ではないのかな?という印象が個人的にはあります。一言で言うなら「ちょっと分かりづらい」「伝わりづらい」、もう少し踏み込んでいえば「とっつきにくい」概念だからです。

 このとっつきにくさはパーパスよりちょっと前にこれまた流行した「ビジョン/ミッション/バリュー」に関しても同様だと考えています。

 これらの言葉の共通点を探ると、ぱっと見でわかることがあります。みんな「カタカナ」なのです。そしてパーパスなどの概念のとっつきにくさの要因は、この「カタカナ語」が持つ特有の「意識高い」雰囲気やニュアンスによるものではないかな、と個人的には考えています。

 そのあたりの効能(プラスもマイナスもあります)を理解しないで使うのは非常にもったいない!ということで当記事では、私の取り組みの話なども混ぜながら、いかに「ビジョン/ミッション/バリュー/パーパス」といった抽象的なカタカナ概念を意識高いものではなく、誰もが触れやすい概念に変えていけばいいかについて、解説できればと思います。最後までお読みいただけたら、大変うれしいです。

カタカナで語ることの弊害

 さてさて、今回のお題が示す通り、ビジョン/ミッション/パーパスを個人が言語化できた方がいいことに異論はありませんが、多くのビジネスパーソンがその概念を適切に扱えるかというと、そうとも限らないというのが個人的な考えです。

 大企業で様々な同僚と一緒に仕事をしてきましたが、仕事とのかかわり方は多種多様です。存在意義を感じて仕事をしたい、という一生懸命な方ももちろんいますが、それなりに手触りのある業務をまわせてそこそこの給料を得られればそれでいいという方もいらっしゃいます。

 そのような方がいきなり会社から「ビジョンやパーパスを持ちなさい」と言われるとどうなるかというと「困惑する」というのが正直な反応ではないでしょうか。それまではパーパスなんてなくても、それなりにやりがいのある仕事ができていて、困らない程度の給料をもらえていたのに、なぜそれを持たないといけないのかが腹落ちしないからです。

 というわけで結果として、パーパス経営を取り入れて、従業員にもパーパスを語ってもらうようにしている企業の中では、上手に意識高くパーパスを語れる人との間の意識ギャップが生まれることもあります。(もちろんそうでない会社もあるでしょう。あくまで傾向としての話です)

 組織としては、ギャップを感じてモチベーションを落としていく人に給料は払えない。という考え方もありうるとは思いますが、外資コンサルのような会社ならまだしも、いわゆる「日本の大企業」の文化にいきなりそのスタンスを放り込むのは、大きい弊害が生まれる気もしています。

 会社としては、従業員のみなさんが充実感を持って働くためによかれと思って言っているはず。けど少なくない従業員の方がギャップを感じてしまって、困惑してしまう……この現象、率直に言うと「すごくもったいない」と思うのです。どっちがいい/悪いではなくて、立場や見ている場所の差からくる、純粋なすれ違いだからです。

 というわけで大事なのはこの「それぞれの立場の違いからくる意識のギャップ」を、いかに是正していくか、だと私は考えています。

身近な概念に変換しよう

 ではどうしたらいいか、という話ですが、「意識高い人とそうでない人が扱える身近な表現の共通言語」を産み出すことがこの手の概念を適切に日本企業が取り扱うにあたり大事だと考えています。

 私は企業研修や個人向けワークショップで、ビジョンを持ちましょう、自分の存在意義を言語化しましょうと言っていて、ワークを通じて言語化してもらっています。

 やってることが「パーパス持ちましょう」と言っている偉い人たちと一緒じゃん、と思うかもしれませんが、このような概念を伝える上ですごくすごく注意していることが1つあります。何かというと「受け手が腹落ちしやすい概念に丁寧に落とし込んでいくこと」です。

 このような研修で私は「ビジョン」という概念を多用します。けど、数少ないビジネスパーソンの方が、この「ビジョン」という言葉を聞くと、ちょっと微妙な表情になるんですね。すごくわかります。だって、意識高いもの。

 この微妙な表情を徐々にほぐすために、私は、ビジョンづくりの研修で、ビジョンのことを「10倍の夢」と表現しています。

 研修のプロセスとしてはこうです。まず、身近な夢を書きだしてもらいます。家を建てたい、でも、子どもを育てあげたい、でも、海外転勤したい、でも、身近な夢はどんなものでも構いません。そして、書き出した夢をまずいったん「3倍にしてみてください」と伝えて、自分なりに3倍を言語化してもらいます。そこで感触をつかめたところで「では10倍にしてみましょう」と促して、10倍の夢を言語化してもらいます。10倍のスケール感の捉え方は様々ですが、それぞれのイメージで自由に未来への妄想をふくらませて頂きます。

 次に言語化するのが「ミッション」です。「その10倍の夢を叶えるために、今具体的に取り組むことを教えて下さい」という問いかけから言語化してもらいます。

 その次が「バリュー」です。自分がその取り組みをし続ける上で、大事にしたい価値観を3つあげてもらいます。もっとも抽象度の高いビジョンからまず言語化して、ミッション⇒バリューと順番にブレイクダウンしていくのがポイントです。

 「ビジョン/ミッション/バリュー」という言葉をあえて使わずに「10倍の夢⇒叶えるために取り組むこと⇒取り組むうえで大事にしたい価値観」という優しい日本語に置き換えて順番にじっくりと(3時間から5時間はかけます)進めると、ワークを通じて、自分事あふれる言葉が出てくるようになります。

 これがなんで自分事に落ちてくるのかというと、身近な話題からちょっとずつ段階を経てイメージを広げていくことで、ビジョンという言葉からくる特有の「意識高いアレルギー」を回避できるからだと思っています。

 いきなり「あなたのビジョンを語って下さい」と問われると、多くの人の反応は、その言葉の曖昧さと意識高さからくる「困惑」なのです。あまりに遠くにありすぎて、ギャップを大きく感じてしまうわけです。

 一方で、すんなりと「あなたのビジョンを語って下さい」と問われて語れる方も中にはいらっしゃいます。その方は、ちょっと雑な表現ではありますが、いわば「意識高いエリート」です。それなりに自分がどうしていきたいかを考えて、人に伝える習慣のある人です。けど正直、そういう方って、一般の方からみると心の距離を感じると思うのです。遠くにいすぎて、悪い人ではないんだろうけど、友達にはなれない感じというか……。

 けれども、多様性を尊重した組織は、その意識高い人も許容し、そうでない人も許容しながら、混ぜながら具体的なアクションが起こせるような文化を形成することで成果へとつなげていくものです。だからこそ、その意識高いエリートの方と、ビジョンなんて概念に触れたことのないビジネスパーソンの間にしっかりと橋をかけるような、丁寧なコミュニケーションをつくっていく必要があると考えています。

 そのために必要なのは、上から「いいからやりなさい」と落としていくことではなく、まずは「身近な概念に変換して、意識高い人とそうでない人が扱えるフラットな共通言語」を産み出してコミュニケーションをしっかりとっていくことではないでしょうか。だからこそ私は「10倍の夢」と変換して「ビジョン」という意識高い言葉を慎重に使っているのです。

存在の耐えられないカタカナ語の意識高さ

 もう1つ付け加えるなら、カタカナ語の持つ意識の高さって、多くの日本人にとっては、けっこう「凶器」なのです。

 ある起業家支援などをしているビジネスパーソンから「起業したい若者がビジョンがなんだとか語っているんだけど、そんなこと言っているくらいならまずは行動しないとダメだよね」という愚痴のような言葉をSNS投稿を通じて聞いたことがあります。

 個人的には若い人こそビジョンを持ってほしいので、その方の見解にはちょっと異論あるのですが、持ってほしい理由は、ビジョンを人生における行動選択の基準にするためなので、行動しないとダメだよというのはすごく共感するところでした。

 そんな私の見解はさておき、なんでこのビジネスパーソンが、ビジョンを語る若者に違和感を覚えたかというと、たぶんなんですが、その若者がすごく「意識高く」語りすぎて、頭でっかちに見えたからだと思うんですよね。

 例えると、空を高く舞っているものの、糸が切れてしまってどこにいくかいつ落ちるかわからない凧のような意識の高さがそこに垣間見えます。

 なんでこのようなことが起きるかと言うと、これは一種の「ビジョン酔い」の状態だと思うのです。つまり、ビジョンという言葉の持つ心地よさから「私のビジョンは~」とつい自分を大きめに見せながら自己陶酔状態で語りたがってしまう状態です。ギョーカイ用語も含むカタカナ語には「自分はこの概念を理解している」という優越感や高揚感のようなものに人を浸らせる効能がどうやらあるようで、それゆえに使う側が、地に足つかずに空に舞いがっているような状態になるのですね。

 そのような優越感と共に壮大なビジョンを連呼されると、周囲の人は「鼻につくなあ」という感想を抱きがちなのです。チェコの小説家ミラン・クンデラの小説に「存在の耐えられない軽さ」という作品がありますが、そのタイトル風に周囲の人の感覚を表すなら「存在の耐えられない意識高さ」といったところでしょうか。せっかくいいビジョンやパーパスを語っていても、誰も受け入れてくれません。非常にもったいないですね。

 サイバーエージェントで数多くの若手を抜擢して関連会社社長に据えている仕掛け人である人事責任者の曽山哲人さんにインタビューしたときにおっしゃっていたのですが、サイバーエージェント社長の藤田晋さんは、抜擢の見込みある人材の要件として「言うことは壮大。だけどやることは愚直」であることを挙げているそうです。私もこれまでいろんな起業家を見てくる中で、この表現にすごく納得がいきました。確かにその通りなのです。

 一方で、ビジョンを語って行動しない起業家志望の若者は藤田さんの表現を借りるなら「言うことは壮大。かつ自分の壮大さに酔っている。そして地に足がついていない」状況だと思うわけです。

 組織がビジョン/ミッション/バリュー/パーパスなどなど表現するのはとてもいいことですし、絶対にやった方がいいことです。私も企業に対して、言語化の支援をしています。けど、従業員のみなさん(個人)にその概念を落とし込んでいく上では、この「カタカナ語の持つ意識高さの弊害」を意識しながら、双方向性のあるプロセスづくりも含めてしっかりと考える必要があると個人的には考えます。下手なコミュニケーションをとると「会社が壮大さに酔っている」状態に錯覚させかねないからです。だからこそ、繰り返しにはなりますが「みんなに分かりやすい表現に置き換える」「みんなの声を聞きながら伝わりやすい表現に調整していく」プロセスはとても大事だなと思っています。

パーパスをどう日本語化するか

 さて、そんな長い前振りから、今回のお題である「パーパス」に話を戻します。では私たちは、パーパスというカタカナの持つ意識の高さを、どのような言葉に落とし込んで、意識の高さの緩和してより多くのビジネスパーソンの自分事に落としていくべきでしょうか。

 本来で言うとパーパスの和訳は「存在意義」です。しかし困ったことがあります。「存在意義」という言葉は、意識高い上に「お堅い」のです。これこそ、ますます取扱注意な単語です。かといって「目的」だと矮小化されすぎます。いい塩梅をみつけるのが非常に難しい単語です。

 パーパスという言葉が流行しだしてから、私もこの翻訳には頭を悩ましてきました。その結果、最近たどり着いた言葉があります。

 それが「野心」です。

 パーパスが野心? 思う方がいるかもしれませんが、コーチングやファシリテーションで「あなたが今成し遂げたい野心は何ですか?」と質問すると、かなり高い確率で「今、自分はなぜ〇〇に取り組んでいるか?」という、行動と動機がまじりあったオリジナルな言葉が出てきます。しかも、単語として「チャレンジ」のニュアンスも入るので、現状からちょっとストレッチされた言葉が出てきます。パーパスの意図するところが表現されやすくなるのです。

 コーチングやワークショップのファシリテーションするときは、パーパスについても、ビジョン語りの前に小さな夢を語って頂いているのと同様に、まずは「小さな野心」を入り口にして言語化していただきます。「現状がこうあったらいいのに」というちょっとした夢と、自分が今できることを掛け合わせて、「これをやったらこれを成し遂げられるかも」という手触りのある言葉に変換していただくのです。

 そうすることで「パーパス」という言葉の持つ意識の高さが緩和され、よりオープンで本音に近い、取り回ししやすい言葉が、相手からは出てくるようになります。カタカナが苦手な人でも、もしかしたら小学生でも「あなたの野心は何?」という質問には答えられますし、その答えは変につくらない、自然なものになることが多いのです。

 「野心」と意訳するのは、ファシリテーターやコーチとしての私なりの工夫なので、実際に使う言葉はなんでもいいのですが、ここで改めてお伝えしたいのは、ある理念や価値観を様々な人たち伝えたいときは「身近で手触りのある言葉や概念」を用いることが大事だということです。

 
難しかったり、かっこよすぎる表現を使うということは「相手を選ぶ表現」をしているということです。「少数派に熱狂的に選ばれる組織や個人」であればそれでもいいと思いますが、大企業のように広く受け入れられる組織や、より多くの人たちに共感されやすい個人でありたい場合には、相手を選ばない、かみ砕かれた、わかりやすい共通言語を持ってコミュニケーションを創っていくことが重要なのではないかな、と思うわけです。

誰もが可能性を発揮し、仲間と価値を産み出せる社会をつくる

 というわけで私の大事な仕事の一つが、組織や個人の「夢や野心」の言語化支援です。組織に対しては、コミュニティ型組織開発という手法で持って、自分の夢を語り、野心を語り、周りの人たちと共感しあいながら一緒に夢をかたちにしていく、そんなコミュニティ型チームを生みだすお手伝いをしています。所属や属性にかかわらず、誰もが可能性を発揮できて、周りの仲間と一緒に新しい価値を産み出せる社会をつくるために、日々活動しています。

 そんな夢や野心に共感いただける方がいらっしゃいましたら、ぜひ下記のサイトの問合せフォームからご連絡ください。個人でも組織でも、可能性を発露する入り口は「周囲とのコミュニケーションのよりどころとなる価値観の言語化」です。より多くの方々に対して、そのお手伝いができればと考えています。


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