あなたの肩書は「名は体を表す」状態ですか?~"コミュニティ・アクセラレーター"を事例に肩書のあり方を考える~
Potage代表取締役、コミュニティ・アクセラレーターの河原あずさです。
……という肩書を名乗っていつも活動しています。今のところ世界で一人だけの肩書「コミュニティ・アクセラレーター」を名乗っています。(LinkedIn検索で調べ)
「コミュニティ・アクセラレーター」という肩書を名乗りだして、4年経とうとしています。名乗る前と後では、大きくキャリアや人生が変わりました。
名乗った当時は会社員で、駐在していたサンフランシスコから日本に戻って半年近く経った時期でした。東京カルチャーカルチャー(カルカル)というイベントハウス型飲食店のプロデューサーをしながら、渋谷に移転したカルカルの「新しいことをやる担当」として、新規事業(ノウハウとネットワークを生かしたtoBソリューションビジネス)を仕込んで最初に形になりだした時期です。
肩書を名乗ったことと直接の因果はないかもしれませんが「コミュニティ」というキーワードを肩書に入れて、活動の軸も「コミュニティ」にフォーカスすることで、仕事のオファーはどんどん増えていきました。だんだんと再開発の進む渋谷エリアで「コミュニティの人」として広く認知される結果となったのです。
そして2020年には「コミュニティ」をキーワードにした本を出版できました。同時期にコミュニティ軸のコラボレーションを数々行ったPeatix Japanの藤田祐司さんとの共著です。おかげで「コミュニティ」といえば河原あずさ(あずさん)だとおっしゃっていただく機会も増えてきました。
2021年1月18日にはコミュニティ・アクセラレート・カンパニー「Potage」を起業しました。コミュニティ・アクセラレーターと名乗った当初には、自分がその名前を冠して起業をするなんて、欠片も思っていなかったのです。「名は体を表す」という表現になぞらえて言うなら、「名(肩書)が体(実態)に追いついてしみこんでいった」というのが的確かもしれません。
今回のCOMEMOでは、大きく締切を過ぎた「肩書を複数持つ必要がありますか」というお題への遅刻アンサーとして、「名は体を表す」という言葉を手掛かりにして「肩書」を使うことの効能と、ぼくの思う上手な使い方について語りたいと思います。サンプルが自分しかいないので参考にどこまでなるかはわかりませんが、一つの事例としてご笑覧いただければ幸いです。
コミュニティ・アクセラレーターとは
2021年1月時点で把握する限り、世界中で個人では自分しか名乗っていない肩書になります。コミュニティを通じて、かかわる人たちの背中を押す人という意味です。アクセラレーターは、車のアクセルのように、加速させる存在という意味です。ビジネスやクリエイターを支援する立場の存在のことを指します。
2008年から、イベントづくりを行っていて「イベントプロデューサー」と名乗っていました。しかし、特にサンフランシスコ・シリコンバレーで現地のイベントやミートアップの様子を取材し、目の当たりにした2011年から、大きくイベントに対する価値観が変化したのです。
変化の結果生まれた価値観は「イベントは自分にとって、コミュニティの仲間をサポートするための手段の一つでしかない」というものでした。
自分のコミュニティづくりや、コミュニティを活かした事業創出、キャリア開発のノウハウはサンフランシスコに駐在していた2013年からの3年間で形になっていきました。起業家を含む、新しいことに挑戦する人たちに手を差し伸べるサンフランシスコ・シリコンバレーのフラットな気風もあって、現地ではたくさんの支援を受け、数々のコラボレーションを実現しました。
そんなとき、3年間拠点にしたサンフランシスコで「アクセラレーター」に出会いました。サンフランシスコ・シリコンバレーにおけるアクセラレーターは、起業家や新しい事業を作る人たちの成長を後押しする会社や場所のことです。それを知って「そうか、自分はいろんな仲間たちの成長を後押しするアクセラレーターなんだ!」とピンときたのです。
そうしてサンフランシスコから帰国した後の2017年3月に、コミュニティ・アクセラレーターと名乗りだしました。
※今みると「密だなー」と思える2019年秋に札幌で開催した「コミュコレ!北海道」の集合写真です。登壇者12名と来場者50名が記念撮影。この後は、初対面同士の出演者や来場者がごちゃっとなって、会話に花を咲かせ、この後さまざまなプロジェクトにつながるきっかけになりました。
自分の「体」(ありたい姿)にあわせて「名」(肩書)をつくる
肩書をつける前後で大きく変わったのは、まずはマインドセットです。自分で肩書をつけるのは、周囲に対して「自分はこういう人間なのだ」と宣言することです。コミュニティ・アクセラレーターと名乗った後も「自分はコミュニティを通じて人々の成長を後押しするのだ」と定義した途端に、やるべきことのピントが合い、自分の仕事に対する社会に対する責任感が湧いてきました。
2017年の5月には、NHKさんとの番組連動企画「NHKディレクソン」の立ち上げに中心メンバーとして参画します。そして6月には、Peatix Japanの藤田祐司氏とコミュニティキーマンを集めたミートアップイベント「コミュコレ!」を立ち上げました。いずれも共通しているのは、自分たちがキーパーソンだと考える新しい価値創造をしている人たちのステージをつくる場であること、そして、そんな人々の横のつながりを自然と醸成できることでした。その結果、「コミュニティを通じた人々の成長の後押し」が徐々に形になっていきました。「名」に「体」が徐々に追いついていったのです。
ほぼ同時期に周囲からも「コミュニティ」の相談が増えてきました。ぼくはイベントハウス型飲食店のプロデューサーだったので、それまでは「面白いイベント」の相談がほとんどだったのですが、この時期を境に「ファンとつながる仕掛けづくり」「同業者の人たちのコミュニティ形成」というキーワードが相談してくるクライアントの口から出るようになりました。そのような流れで形になった企画には、若手看護師コミュニティ看護師ーずとオムロンヘルスケアさんとコラボした「渋谷ナース酒場」があります。
多くの人々が考える肩書のつけ方には、下記の2つがあります。
①所属、階層や職責を表現した肩書 (例)〇〇社代表取締役、△△事業部 ××部長
②職能を表現した肩書 (例)デザイナー、ブロガー
一方、ぼくがこの記事でお勧めしたいのは、その2つとは違う、以下のカテゴリーの肩書をつけることです。
③体(自分のありよう)を表現した肩書 (例)カタリスト、コネクター、妄想工作家、越境フリーランス、うどんアーティスト、ご縁を結ぶ出張バーテンダー、稀人ハンター、ブルーチーズドリーマー、コミュニティ・アクセラレーター
①や②が「実態」にあわせて肩書を名乗るのに対して、③は現在の自身の姿や「~な姿でありたい」というその人の近未来ビジョンが投影されます。そして、生きる/働く上での軸が表現され、周りの人間関係の変化にもつながります。これが「名は体を表す」の「体」の部分になります。
以前「あたらしいお仕事図鑑」というコミュニティミートアップを企画したことがあります。世の中にない新しい職業をつくってみたことない肩書を名乗る人を「職リエイター」と呼び、その人たちを15人集めて話を聞き続ける企画です。そこに集まる人の多くは③の肩書を名乗り、自身の「体」を表現していました。(例で挙げたのは、そこに登壇したみなさんの肩書の一部です)
彼ら彼女らの共通する特徴は、自分なりの仕事や生き方を突き詰めるうちに「気が付いたら生き方が職業と同一になっていた」点です。名乗ることでその人の体が出来上がったり、体にそれまでの肩書が追い付かなくなった後にどう名付けるかを考えて形にしているので、多くの人たちの共感や興味関心を呼びやすいのです。
※ちなみにこちらの記事に出てくる栄さん、通称さかえるさんは、自分のように移住してさまざまな仕事に取り組む人たちを「田舎チャレンジャー」と表現しているそうですが、この呼び名も「生き方と職業が同一になっている」ひとつの例だと思います。想像力がかきたてられるネーミングですよね。
「名と体の一貫性」がその人の信頼に関わる
さて「体を表現した肩書」をつける際にとにかく大事なことがあります。「生きざま」と「仕事」の接続を的確に表現することです。
時々、ブームに乗ってなのか「〇〇デザイナー」とか「〇〇カタリスト」などのオリジナル肩書を名乗る方も見受けられますが、その人の経歴や過去の行動、実績などをみたときにギャップがあると、接する人たちは容易に気が付きます。「名は体は表す」の「名」と「体」のズレが生まれるからです。そういう人は、表現がちょっと悪いかもですが「勘違い人間」に見えることもあります。
複数名のCOMEMO KOLの書いていたような「肩書の呪縛にとりこまれた状態」や「イキがった肩書の痛さ」は「名」と「体」の乖離から生まれます。そしてそういう方の中には流行りの単語を使って肩書をころころ変える方も散見されますが、「一貫性のなさ」がどうしても「痛さ」を助長します。
ぼくと同じように、肩書から入って自分自身の体をつくっていってもいいし、自分自身の体を表現する肩書を後からつけてもいいし、どちらでもいいと思います。ただ大事なのは、その名前を名乗ったときに、自分や周囲の「しっくり感」があるかどうかです。自分はもちろん、自分がかかわる誰かが違和感を感じるような肩書は、名乗らない方が幸せなことが多いです。
「あずさんは、確かにコミュニティ・アクセラレーターだよね」と関わる人たちが納得できるような状態を作り続けることが「名」と「体」をつなぎつづけるためには大事です。一貫性を持ち続け、自分の行動や言動に、肩書に見合う信頼を獲得したとき、肩書はその人自身に本当の意味でなじみ、「体」と一致していくのです。
ぼくの場合は、肩書を名乗ることで、日々の行動と「コミュニティ」というキーワードの連なりをいつも考えるようになりました。「コミュニティ」から支持されるかそうでないかという尺度が生まれ、ますます行動や考え方が「コミュニティ・アクセラレーター」然としてきたと自認しています。自分にしかできない仕事にどんどんフォーカスし、活動は加速し、人間関係も変化してきました。
しかし肩書が機能した最大の要因は「コミュニティ・アクセラレーター」が、自分のもともと有していた資質や、目指すありかたとの親和性が高い肩書だったことです。これが「ハイパーメディアクリエイター」や「メディアアーティスト」(それぞれ名乗っている方は、肩書を体現される活動をされていて尊敬の対象です、念のため!)だと、どんどん苦しくなり、自身の肩書を捨てることになったでしょう。
名乗るのかどうか、その必要があるかも含め、肩書をつける上では、自身のありようを整理し、自身がどんな人間かをつきつめ、近くの方の反応なども見ながら決めていくのがいいのではないでしょうか。えいや!で一時的なノリと勢いで「名」を決めるのは、中長期的にみれば得策ではありません。長く使える名前を大事に使いましょう。そうすればきっと「体」はついてきます。
「肩書を複数持つ必要がありますか」という問いかけを入り口に、自身の肩書論を整理しましたが、こうやって考えてみると、持っている肩書の数よりも、自身をどんな存在と定義するかが(「体」をいかに表現するか)まず大事ではないかと思います。その上で、自身の「体」を表現できる手段としての職をつくり、必要あれば活動先の名刺を刷ればいいのではないでしょうか。
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