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コミュニティ思考の極意「自己中心的利他」行動術【コミュニティ思考を語ろう④】

 Potage代表、コミュニティ・アクセラレーターの河原あずさです。コミュニティづくりの専門家として、ファンコミュニティづくり、組織づくりのお手伝いをしています。

 3月のCOMEMO記事から「コミュニティ思考」についてシリーズで語っています。今日は第4回目の記事です。(あわせて、Voicyで音声コンテンツも公開しているので、もしご興味ありましたらそちらも聴いてみて下さい!)

 僕は、社会が今直面している課題への対応策を見出し、より豊かな社会を築くための鍵が「コミュニティの力」にあると確信しています。このコミュニティ思考に関する論考が遠くない未来に、より個々人や社会の可能性を解き放つきっかけになることを祈りながら執筆するので、どうぞ3回目もどうぞご笑覧下さい!

連載の第1~3回は↑です!ぜひあわせてお楽しみください!


ギブ・ファーストと持続可能性

 今日は、コミュニティ思考3原則の3つ目「仲間のためにも動く」について解説します。この原則は、特に急速に変化する今の時代において、ますます重要性を増してきていると考えています。

ビジョンを行動基準にする
仲間と対等に接する
仲間のためにも行動する

 さて「仲間のためにも動く」と聞いた時に、どんな光景を皆さんは思い浮かべるでしょうか。例えば、チームで動いている時に、自分勝手なことばっかりしてたらチームにならないというのは「コミュニティ」というテーマで日々探究されている皆様にとっては、すごく自然に受け止められる事実だと思います。

 とはいえ「自分のために動くこと」はダメなことでしょうか?すべての行動を「他人のため」に向けなければならないでしょうか?コミュニティ思考について深ぼって考えるときに、この問いは、とても大事な示唆を与えるものになります。

 コミュニティを軸にして活動をしていると「ギブ・ファースト」という概念に出会うことがあります。何か行動をするときに「まずは人に何かを提供するところからはじめましょう」という考え方です。まずはギブありきで考えて、周りに貢献するところからスタートすると、結果的に、めぐりめぐって自分にとってプラスなことが返ってきますよ、という考え方になります。

 前提として、これはとても素晴らしい考え方だと思っています。しかし、ただ1つ、取り扱う上での注意点があります。自分にまだ何もない状態で「ただギブをする」行動や「自分が叶えたいことを完全に無視してギブをする」行動は、実はコミュニティ思考をからすると、ちょっと違和感ある行動になってしまうのです。

 その理由は「自分自身の活動を持続的にできない」点にあります。自分自身をすり減らす一方になることも多く、結果として自身がコミットした活動からフェイドアウトしたり、挫折したりすることにつながってしまうのです。

「あふれた分だけおすそ分け」の落とし穴

 ではどうしたらいいでしょうか。結論を出す前に、まず考えてみたい「ギブファースト」とは対極の考え方があります。それが「あふれた分だけおすそ分け」というものです。

 もしかしたら皆さんの中で聴いたことがあるフレーズかもしれません。誰が言い出したのか定かではないのですが、この数年でSNSなどで口にする人が増えてきました。

 どういう考え方かというと「人のために行動するとすり減らしてしまうから、まずは自分を満たすところを優先させて、自分が満ちたな、あふれてきそうだなと自覚できたときに、あふれた分を人に与えていくといいですよ」というものです。

 これは一見すると分かりやすい考え方です。しかし、このフレーズに関しても、コミュニティ思考からすると、注意が必要なものだと感じています。

 確かにギブ一辺倒だと、自分をすり減らす一方になってしまいます。それは事実ですが、とはいえ「あふれた分だけ返しますよ」という発想だと、特に今のように、ちょっと世の中全体に余裕がない時代においては、社会全体にリソースが循環しない「詰まり」のある状態が生まれてしまうと思うのです。

 「あふれた分だけおすそ分け」で多くの人が動くと、世の中全体が余裕のない状態のとき(つまり、新自由主義が進み、格差が生まれ、物価があがり、可処分所得が下がり、生き抜くのが難しくなっている2024年現在の状態のときにも)「あふれる分」の総量が、論理的に考えてどんどん減っていくことになります。どんどん削られてくる「あふれる分」をみんなで奪い合うという構造が生まれるし、小さいパイの奪い合いの結果、コミュニティの分断を起こすことだってありえます。

 そもそも人は「自分があふれた状態」を正しく知覚できるでしょうか?「あふれている」という状態は主観による上に、そもそも人間の欲望は際限がないものなので「今、自分があふれているな」という感覚には、なかなか到達できないのが正常だと思うのです。生きるうえで十分なお金を持っている人が、運用して節税して更に資産を増やそうとするのと同じ構造です。

 もちろん、ものすごくマインドフルで、メタ認知が完成されていて、自分なりの尺度で「自分があふれているか/そうではないか」を判断できる方もいるでしょう。ただしそれはものすごく高度なことです。できるのは、世の中全体を見渡してみたときに、ものすごく少数派な気がするのです。

 少なくとも、人としてまったく未熟な僕には、そんなことができる自信がありません。自分はそこまでできた人間ではないとわかっているので「あふれた瞬間なんてそうそう訪れない」と割り切って生きているのです。

 そんな人間(つまり世の中の大多数)にとってみれば「あふれた分だけおすそ分け」という考え方で生きていると、いつまで経っても周りの人間におすそわけができない状態になってしまいます。これが、このフレーズを「要注意」だと考えている理由なのです。

コミュニティ思考における自己中心的利他の重要性

 ではコミュニティ思考的に理想の「他人のためにも動く」とは、どのような行動様式を指すのでしょうか。僕が個人的に提唱しているのが「自分の活動の総量に対して、ちょっとの割合を周りへのギブにあてていく」ことです。

 例えば自分のリソースの総量を10とします。「あふれた分だけおすそわけ」の状態だと、基本的には自分のリソースを「あふれるまで自身を満たす行動」に振り向けるので、10に近い力を自身に注ぎ込むことになります。これがいつかあふれるだろうから、それまでは他人に振り向けないようにしようという考え方が基本になります。

 一方で「自分の活動の総量に対して、ちょっとの割合を周りへのギブにあてていく」状態はどのようなものかというと「常に10のリソースのうち7から8を自身に振り向けて、残りの2から3を他人に振り向ける」状態です。

 どのようにその状態はデザインできるでしょうか。そのカギになるのが、楽天大学学長の仲山進也さんが提唱する「自己中心的利他」という概念です。

 自己中心的利他とはどういう概念かというと「(やれと言われなくてもやってしまっている)自分自身が得意なこと、やりたいことをやると、周りに常に喜ばれる」状態のことを指します。

 まず「何か行動しよう」としたときに、自分がやりたいことを軸に考えます。しかし、周りの人が喜ぶポイント、周りの人のためになるポイントをおさえながら行動すると、自分がやりたいことを叶えると同時に、周りの人の欲求も同時に叶えられて、自分の周辺に常にプラスの作用がもたらされる、周りがハッピーになる状態を生み出すことができます。これが「自己中心的利他」が叶っている状態です。

 僕は、コミュニティ思考の究極のゴールはこの「自己中心的利他」を持続性をもって実現することだと思っています。つまり、自分自身が、自分の目的やビジョンを叶えるために常に動いているのだけど、自分がやり続けることでどんどん周囲にいい影響が波及して、周りもどんどん満たされていく。うまくコミュニティ思考をもとに行動をデザインすると、そのような状態を生み出すことができるのです。

 そのデザインに必要なことが、早い段階で「周りにいる仲間にとっての価値」を定義することです。つまり「こういうことを周りはやってほしいのだ」という周囲の欲求をしっかりと可視化すること。そして、行動をするときは常にその「価値」が周囲の仲間に渡るように意識すること。ここが「持続的に仲間のためにも動く」上で重要なのです。

 これができると、自分の周りがどんどん満たされる状態が生まれ、結果的に価値提供と自身の欲求を満たす行動の精度が上がることで、自分自身がやっていることの成功確率が上がっていきます。「自分の得意を活かして、自分のやりたいことを仲間と一緒に形にすることで、仲間にも価値を提供していく」ポジティブなループを生み出すことが、不確実な時代、そしてつながりの価値がより重要になっている時代においては、ますます大事になっているのです。

 「仲間のために行動する」ということは、自分自身の活動総量を10としたときに、意識して2から3程度のリソースを、常に周りに対して振り向けて価値を還元していくということです。そのような行動設計ができると、自身のビジョン(10倍の夢)の実現に、そして仲間のビジョンの実現に、お互いに近づくことができるし「よりよいつながりづくり」を実現することができるのです。

 次回の記事でも「仲間のためにも動く」について、続きで解説します。引き続きお楽しみ下さいませ。

僕と同時期にシリコンバレーで活躍していた西城さん(現パナソニック)がギブ・ファーストの価値を書いている記事です

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