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敏感か、鈍感か? 〜 『ふてほど』を観て考えた、鈍感/敏感のバランス

お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。

突然ですが、今日は「敏感と鈍感」について書いてみます。

「敏感」すぎるのも生きづらい?

今クールのドラマで、宮藤官九郎さんが脚本の『不適切にもほどがある』(以下『ふてほど』)が話題ですね。

このドラマは昭和と令和の時代を舞台にしたタイムスリップもので、それぞれの時代のいいところと悪いところを改めて比較しつつ、色々と考えさせられます。あと昭和のワードがめっちゃなつい。(「AXIAのハイポジ」とかなつすぎて悶え死んだw)

ご覧になっていない方にネタバレになるといけないのであまり詳しくは書きませんが、登場人物の一人の職場での発言が「パワハラ」とされてしまうエピソードがありました。その人自体は本当に悪気なく職場の部下に助言をしているのですが、それがパワハラとされてしまい、ショックで弱ったその人が、昭和の時代について「鈍いくらいの社会の方が、ちょうどいいのかもな、私には…」みたいなことをいうシーンがあるんですね。

もちろん、「敏感さ」と「鈍感さ」はどちらも必要で、どちらがいい、とかではありません。実際、『ふてほど』には、「懐かしいっていうか、たしかにこんなんだったなあ」という昭和のシーンがたくさん出て来ますし、その多くが今の感覚で観ていると「いやいやアウトだろ…」と気になってしまいます。


昭和と令和を比べると令和の方が確実に「敏感」になっています。とりわけジェンダーを含めたダイバーシティ観点でいうと、昭和の言動や笑いには、今から考えれば「鈍感」さと無神経さで人を傷つけたり踏みつけにしていることも多かったので、そういう痛みに社会が「敏感」になってきたことは社会的前進だといえます。

しかし一方で、「敏感」さが必ずしも生きやすさにつながるかというと難しいところがあるかも、とも思います。

以前、Voicyで幸福学の前野夫妻と「ウェルビーイングとアート」について鼎談した際に、アーティストの生きづらさに触れたことがあります。

芸術家は「炭鉱のカナリア」と呼ばれることがあるように、世界に対して人一倍鋭敏な感覚をもっています。

その敏感さのおかげで芸術家は社会の変化や理不尽さを敏感に感じ取り、それを作品に昇華させることができるわけですが、その敏感さのために生きづらそうだと感じることもあります。今でいうとパレスチナ問題について、友人のアーティストやミュージシャンにはとても心を痛めている方が多く、ともするとメンタルを病んでしまうのではないか、と心配になることさえあります。


敏感/鈍感のバランスを3つの切り口から考えてみます

「鈍感」は人を傷つけます。でも一方で、「敏感」が生きづらさの原因になることもあります。気づかなければ幸せだったのに…とまではいいませんが、本人にとってだけでなく社会全体としても、あまりに敏感になったためにかえって苦しくなってしまうこともある気がします。

『ふてほど』がこんなにも話題になっているのは、昭和と比較して、令和がある意味では優しくなっている一方で、ある意味では窮屈になっていると感じる人が多いからではないでしょうか。

しばしばSNSで問題になる「表現の自由」もその一つでしょう。上記のように、僕は社会が敏感になることは総合的には前進だとは思っていますが、そんな僕でも「いやいやさすがにやりすぎでは…」と思うことがあります。

そう思える事自体が、僕自身が昭和の生まれでアップデート語りておらず、いまだ「鈍感」にすぎるからかもしれません。昭和の時代には多くの場合において社会的に男性の方が優位で、男性は「鈍感でいてもそれほど困らない」ために、どうしても無自覚なままのケースも多いからです。

ただ、敏感になりすぎると「過敏」の状態に陥ることもあります。これはアレルギーに似ていて、防衛のはずが過敏になり反応が大きくなると自分で自分を攻撃してしまったり、苦しくなってしまうこともあります。

「敏感さ」と「鈍感さ」の間でどのようにバランスを取ればいいのでしょうか。ちょっと3つの切り口からそれを考えてみます。

①インかアウトか

1つ目の切り口は「インとアウト」です。誰かに対しての言動や行動=アウトで、反対に受け取るときがインです。

先に述べたように、昭和には時代の「敏感さ」によって傷ついたり踏みつけられて苦しんでいる人がいました。こうした無自覚の暴力が再生産されないよう、「アウト」には敏感であるべきでしょう。かつてのように無頓着な行動や発言が誰かを傷つけておいて、「気づかなかったからしょうがないじゃん」と開き直っていていいわけではありません。


その一方、自分が何かを言われたりされたりした「イン」の時には「鈍感」を心がけた方がいいかもしれません。たとえばSNSなどで自分のポストに、たくさん攻撃的なリプライがついたりすることがあります。それを全て受け止めてしまうと心が持ちません。

色々ある声も自分に対しての意見だから…と、リプライを全部見て、なんならエゴサまでしてそれを受け止めることは一見良いことのように思えますが、一方で見てしまうといたずらにストレスフルになってしまったり、こちらも攻撃的になったり争いの種にもなりかねません。

なのでアウトプットでは敏感さをもって気をつける一方、インプットではあまり細かく考えず適度な鈍感さを持つことが大事かもしれません。周りに与える影響には敏感に、外から受ける影響には適度に鈍感でいることが、いいバランスな気がしています。


②パワーバランス

二点目は、パワーバランスの観点です。

パワーバランスに非対称性があり、強い側と弱い側がいるとしたら、パワーが強い側の人が「敏感」を心がけた方がよい、というのが僕の意見です。

パワーバランスが存在すると、パワーがある側の人は気付かないうちに他人を傷つけてしまう可能性が高くなります。そのため、パワーのある側はより敏感になる必要があります。

一方、パワーが少ない側はそもそもダメージを受けやすかったり自分の思う通りにいかないことも多いので、すべてを気にしすぎると辛くなってしまいます。その意味では少し鈍感でいることが心のバランスを取る上で良いのではという気もします。

ただし、これは嫌でも我慢しましょう、とか理不尽なことが多くてもスルーしましょう、ということでは全然ありません。おかしいことはおかしい、としっかりいうことが大事です。物事の捉え方の段階であまり過敏になると、嫌なことにばかり目がいってしまうので、辛くなりすぎないようほどほどに…という意味です。つらい話題に疲れたら、適度に猫の動画でもみましょう。


僕は、敏感さと鈍感さの必要性は、パワーバランスによって異なると思っています。片方だけが他方より気を使わないといけない、というと不公平に聞こえるかもしれませんが、そもそもパワーが不公平だからそれでやっとバランスが取れるのです。

以前、こちらの記事でも書きましたが、

例えば交通事故を考えてみましょう。
道路交通法上で車と歩行者の事故があった時、過失割合は均等ではありません。それは歩行者が弱いからですよね。
車を運転している強い側がより気をつけなければいけないというのことが過失割合で示されているのです。NOをいう権利は平等だ不公平だとかいう前に、持っているパワーによって相手を傷つけてしまう危険がある時にはパワーがある側が非対称な責任を持つべきだと僕は思います。
いや歩行者が信号無視して飛び出してきたんだよ、ということもありえます。それでも、それを予測して気をつけて運転しないといけないのは車の方なのです。より大きく、よりパワーがあるからです。そしてそうした責任を引き受けることとセットではじめて、便利さを享受することができるのではないでしょうか。

昔はよかった、今は何でもNGで息苦しい、というのが、パワーがある側の意見であることがけっこうあります。でも、こちらにとっては大したことない接触でも、相手は大怪我を追うかもしれないのです。


③過去か未来か

最後に、「過去と未来」の観点から考えてみます。

新規事業をやってきて、変化を好む志向がやや強いからかもしれませんが、僕は、未来に対しては敏感で、過去に対しては少し鈍感でいることが望ましいと思っています。変化の兆しに敏感でなければ、現状を容認してしまいがちですし、過去の失敗に囚われすぎると新しい挑戦が難しくなるからです。

人は過去を忘れる能力を持っています。もちろん、失敗から学ぶことは重要です。しかしそれは、過去の失敗その自体が重要というわけではなくて、そこから未来に活かすための学びを得る限りにおいてだと思うのです。

そもそも、今のような変化が激しい時代では、過去の先例が役立たない場合もあります。そのため、未来に向けては敏感に、過去の事例にはあまり固執しないほうがよいのではと思っています。

この意味で「過去に敏感すぎる」の弊害の最たるものが「キャンセルカルチャー」だと思っています。過去に敏感すぎると、失敗が許容されず、ともするとリカバーの出来ない、流動性のなく差別的な社会になってしまう気がします。

人間にはバイアスがあるからこそ、「逆」の重心を

人間には「現状維持バイアス」があり、未来の不確実なことよりも、過去に経験したことの方を強く意識しがちです。このバイアスによって無意識に「過去に敏感で、未来に鈍感」になってしまうため、その逆を心がける方がいいと思うのです。

そしてこれは実は、今日の3つの観点すべてに当てはまることです。

「インとアウト」でも、人は誰かにすることよりもされたことの方に意識が向きやすいものです。「殴った方は忘れても殴られた方は忘れない」とよく言いますよね。無自覚でいると「アウトに鈍感、インに敏感」になってしまうからこそ、逆張りで「アウトに敏感、インに鈍感」を心がけたほうがよいのではと考えます。

また、パワーバランスにおいても同様で、大きく・強いほうが鈍感になりがちなのです。あなたが3tトラックに乗っていたら、後ろから人にぶつかられても気づきもしないでしょう。しかし逆は異なります。軽くぶつかられただけでも人は大怪我してしまうかもしれません。この非対称性を意識し、逆を意識する方がよいでしょう。


「鈍感か敏感か」というと、「敏感」な方がよいように思えるかもしれません。しかし「すべてが敏感」になればいいわけではないのではないでしょうか。敏感が故にかえって傷ついたり、苦しくこともあるのです。

目指すべきは、敏感と鈍感の適切な使い分けやバランスの取り方ではないでしょうか。今日挙げたような観点やシーンに応じて、その重心を調整できるとよいのかもしれませんね。

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