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自分自身の「音」をまず知ろう!

残念ながら、リアルタイムでの紅白は見逃してしまったのですが、桑田佳祐バンドがとても良い!

桑田佳祐、佐野元春、世良公則、Char、野口五郎に加えて大友康平、原由子は全員同級生(早生まれがいるけど)。1955年4月から1956年3月までのクラスだ。

自分より上の世代のおじさんたちが、昭和ならもうおじいちゃんと呼ばれた年齢の人たちが、いつまでも活動的に輝いているのを見るのはとても勇気づけられる。
個人的には、佐野元春を久しぶりに見て「なんか若返ったなあ」という印象だったが、ツイッターでのトレンドになっていたらしいくみんなそう思ってたらしいw

歌詞の内容云々ということではなく、この曲に込められた思いとかメッセージ性とかの解釈や評論でもなく、単純に受け手として感じたことを書きたい。

この人たち、当然ながら全員が普段ソロアーティストとしても活動できるくらいの人たちです。そうした人たちがバンドで演奏するということに重要な意味がある。

ちなみに、ソロ活動という言葉は2015年くらいまでは音楽用語としてしか使われていなかったように思う。元バンド活動していた人が解散・脱退によって、単独で活動し始めることも「ソロ活動」といわれる。楽曲の途中で、メインとなるパートを一人で演奏する場合にもソロという言葉を使う。大勢のオーケストラの中で一人で演奏することは「ソロ演奏」であり、それを行う者は「ソリスト」と呼ばれる。

それを、一般の独身者にあてはめて、彼らを「ソロ」と命名したのは、もしかしたら日本では私が最初ではないかもしれないが、少なくとも、そういう使い方で広く世の中に広めた功績の一部は私にもあると思っている。

独身の男女を表す「ソロ男(そろだん)」「ソロ女(そろじょ)」という言葉は2013年に私が作った造語でもある。その後、「ソロ活」や「ソロ充」などという言葉が流布されるようになり、かつては「おひとりさま」や「1人○○」と言われていた単独での活動が「ソロ飯」「ソロ旅」「ソロキャンプ」などというように、ひとつの代表的な冠言葉としての使われ方をされている。

かつては、英語圏では独身のことは「シングル」といわれていた。日本でもそれを踏襲していた。
「シングル」も「ソロ」も、その意味合いは「一人」というものだが、「シングル」の場合は「個々の」という意味合いが強い。「シングルベッド」などは「一人用のここで使うベッド」という意味だし、テニスや卓球などの「シングル戦」とは「個々の対戦」という意味だ。
一方、「ソロ」も「一人」という意味を持つが、「単独で」という意味になる。単なる状態を示す言葉である「シングル」ではなく、「ソロ」という言葉の中には、そこに「単独でも活動する・できる」という前向きなものを感じられることから、私は独身を「ソロ」と呼ぶことにしたのである。

そして、大事なことは「ソロ」は単独でも行動できるが、決して誰かと一緒に行動できないことを意味しない。単独でギター一本で歌って、ひとつの完成形としての歌を提示することもできるが、二人になったり、三人になったり、はてはバンド形態になったりして、より表現力を高めることの魅力も知っている。誰ともバンドを組む相手がいないから仕方なく一人でやってます的な自己裁量のないものではないのだ。

桑田スペシャルバンドに学べるのは、まさにこの「ソロ力(そろぢから)」をひとりひとりが今後蓄えていくべきなんじゃないかと思う。そしてそれこそが、おじさんが特に弱い「ソロ耐性」につながる。

「誰かと一緒に何かするのが楽しい」ってことと「誰かと一緒じゃなければ楽しくない」というのは全然違う。

バンドをやったことがある人はわかると思うが、バンドとして合わせる場合、当然その前には自分のパートを単独で練習して臨む。オリジナル楽曲であれば、ここはこういうリフにしてみようなど必ず個人で考える時間がある。それを持ち寄って合わせた時、思いのほか「しっくりきた」という場合もあるが、逆に個人で練習している時は「これはかっこいい」と思っていたけど、「あわせたならなんかダサいな」と感じることもある。

これが私が常々いう「仕合わせ」の瞬間なのである。自分と誰かの「仕事」を「合わせる」という意味の「仕合わせ」だ。

自分ひとりで練習していた時には感じなかった新しいことが感じられ、別の発想も生み出される。

その瞬間、何が起きているか。

別にバンドとしての一体感とかではない。メタ認知ができているのである。客観的に自分と自分のバンド全体を客観視できているからこそ、そういう視点に立てるのだ。世阿弥のいう「離見の見(りけんのけん)」の境地と同じである。自分の音だけではない、バンド全体の音としての自分がわかるからだ。

自分の音しかわかっていないのはダメ。全体の音しか聞き取れないのもダメなのである。ひとりひとりが単独で鳴らす音が全体の中でどういう位置づけであるかをひとりひとりがわかった上で、全員が俯瞰の位置でバンドの音を聞いている状態、そうならないと到底バンドとしてのいい音にはならない。

そのためには、「自分は単独で何ができるのか」がわかっていた方がいい。自分が単独でできることがわかっていない奴には、他人のいいところなどわかるはずもない。単独でしか自分のいいところを見せられない者も、誰かと仕合せた時に生まれる自分の可能性をわかっていない。

定年退職して「友達がいない」「趣味がない」などと嘆いて孤独に苦しむおっんもいるらしい。苦しいのかどうかもわからず、ただぼーっとテレビを見て一日過ごすだけの抜け殻になるおっさんもいる。

今までは社会が用意してくれた学校や会社という「所属するコミュニティ」の中にいれば、勝手に自分の役割が与えられていただろう。しかし、よく考えてほしいのは、社会が今まで用意してくれたこと自体が実は特殊なのである。それは決して当たり前ではない。

別の「所属するコミュニティ」さえ見つければ安心だ、なんていうのも幻想である。「ソロ力」があれば、「所属するコミュニティ」なんかなくたっていつでもどこでも自分のコミュニティは作れる。それが「接続するコミュニティ」である。

音楽の話でいえば、名前も知らない相手でも、その場でセッションすることはできる。友達じゃなくても一緒に音を奏でることはできる。いつものメンバーじゃなくても何か新しい発見がそこにはある。

たとえ話として音楽やバンドを例に出しているだけで、これは決して音楽だけの話じゃない。

冒頭の曲のMVでは、最後子どもに戻ったおっさんたちが散り散りになって帰っていく。またいつか「仕合わせる」ために、それぞれのソロ活動に戻っていく。その日「仕合わせた」ことで自分の中に生まれた新しい自分自身を育てるために。そのための熟成期間としてソロ活動はとても大事な事。

刹那の「仕合わせ」なんて所詮刹那的なもので、そんなものは意味ないという者がいる。座禅を1回したくらいで悟りは開けない、と。筋トレを1回はたくらいでは筋肉は作れない、と。確かにそうだろう。しかし、その1回がなければ2回目はない。1回すらしたことのない者は、その1回の重要性をわかっていない。たった1回でも何かが生まれる十分な機会となる。その後、生まれたそれを育てるのはまた別の話だ。

桑田スペシャルバンドの演奏を見て、なんともいいようにない良さ(エモさ)を感じたのは、彼らがひとりひとり「ソロ力」を保有し、それぞれの力を刹那「仕合わせる」ことで生まれるエネルギーを我々に見せてくれたからではないか。

おじさんたちへ。会社生活を辞めたらもう用意されたコミュニティなどありません。だからってコミュニティを探したり、友達を探したりするのは無意味です。今まで何の趣味もなかったくせに趣味が見つかるわけもない。
見つけるべきなのは、コミュニティでも友達でも趣味でもなく、今までずっと見る事を避けてきた「自分自身」だと思う。そのために「ソロ活動」をしてください。すればわかると思うけど、ソロ活動はメタ認知のいいきっかけになる。自分がソロで活動していることを認知して、それをまるでカメラで撮られているかのように自分を見る目を養ってみたください。

自分自身の音がわからない者はバンドに参加させてもらえない。
自分自身のことがわからない者は人とつながることはできない。
自分自身に関心のない人間は誰からも関心を持ってもらえない。


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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。