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「前門のインフレ、後門のリセッション」~ECBに何が起きているのか~

2か月続いた情報発信の混乱
注目された7月のECB政策理事会は預金ファシリティ金利を▲0.50%から+50bp引き上げ、ゼロ%としました。利上げは2011年7月以来で約11年ぶり、+50bpという利上げ幅は2000年6月以来、約22年ぶりとなります:

また、2014年6月に導入されたマイナス金利の歴史も8年で幕を閉じることになりました。さらに今会合では分断化対応のために提示された伝達保護措置(TPI:Transmission Protection Instrument)も決定されました:

厳密にはパンデミック緊急購入プログラム(PEPP)の柔軟性を活用することが「最初の防御壁(the first line of defence)」であり、TPIが次善策であることも示されています。これらの決定は全会一致であることが強調された上で「私にとっては歴史的な瞬間(I think it's a rather historical moment for me)」とラガルドECB総裁は自賛しています。

とりあえず意見集約を見ることができた点はポジティブですが、決定に至るまでのECBによる情報発信は荒れ過ぎでした。過去2か月間の顛末を整理しておきましょう。

まず、5月23日、ブログという異例の形式で7月に+25bp、9月にはそれより大きな幅(恐らくは+50bp)の利上げを示唆したことが話題になりました。これは過去のnoteでも取り上げた通りです:

なお、このブログでは7月1日付で拡大資産購入プログラム(APP)が終了することも宣言されました。その2週間後に開催された6月9日の定例会合ではブログの内容を追認しましたが、市場の一部が期待するイタリア国債などを対象とする分断化対応への具体策は示されず、域内利回りの上昇を招きました。焦ったECBは定例会合から1週間も経たない6月15日、緊急政策理事会を開催し、「分断化対応を検討する」という意思表示をしたのですが、具体策は何も出てきませんでした。しかし、それでもイタリア国債を中心とする利回りは7月会合への期待感から抑制されました:

この時点で7月の利上げ幅は従前の情報発信に沿って+25bpが既定路線と考えられていました。しかし、7月会合の直前(7月19日)なって「+50bpも検討」という観測報道が流れ、7月21日の決定に至っています。なお、TPIを受けてイタリア国債の利回りはむしろ上昇し、6月15日の緊急政策理事会直後よりも水準は高くなってしまいました。ラガルド総裁の自己評価ほど市場の評価は高くないと言えるでしょう。
 
なぜ+50bpなのか?
会見を含め議論すべき論点は多いですが、重要な点は①なぜ+25bpから+50bpに切り替えたのか、②TPIは本当に使い物になるのか、というのが今回会合の焦点と言えます

まず①に関しては事前の情報発信を覆しての決定であるため、当然「それほどまでに域内の金融環境は悪化しているのか。それともTPIの導入と関係があるのか」と質す記者が現れました。ラガルド総裁は利上げが+50bpとなった理由に関し(1)インフレ高進が止まる気配がないこと、(2)PEPPの再投資に関する柔軟性やTPI導入により金融政策の波及経路が修復されることを指摘しています。(2)に関してはかなり冗長な言い回しで分かりにくい印象を受けましたが、要するに「大幅利上げを行ってもPEPP再投資やTPIがあることでイタリアなどの脆弱国利回りは上昇しない」という事実を担保したのでハト派を説得することが出来たというのが実情と推測されます。しかし、冒頭でも言及した通り、TPIの発動条件は厳格であり市場はその実効性を疑わしく見ているようです

気になる今後の利上げ軌道に関しては、次回9月会合は「データ重視(data-dependent basis)」で「一歩ずつ(step by step)」と述べるにとどまっています。6月会合で提示したばかりのフォワードガイダンス「仮に物価見通しが不変もしくは悪化した場合、より大きな利上げ幅が9月、適切になる(If the medium-term inflation outlook persists or deteriorates, a larger increment will be appropriate at the September meeting)」はもはや無効であることも認められました。もっとも、9月スタッフ見通しの仕上がりに応じて利上げ幅が+50bpなのか、+75bpなのかという議論が進むことには変わりないはずであり、市場期待にとってガイダンス削除はさほど重要ではありません。

より重要なことは初回利上げが+25bpではなく+50bpになったことで利上げの終点である中立金利が引き上げられるのかという論点です。この点、記者からは「ECBが正常と考える金利水準はどこにあるのか(what interest levels are considered normal by the ECB?)」と率直な質問が飛んでいます。ラガルド総裁は「人口動態や生産性要因、その他多くの要因でそれは変化しているものの、私には分からない。過去2~3年で変化はしている」と言質を与えていません。ユーロ圏の潜在成長率程度だとすれば1~2%の間というのがコンセンサスでしょうか。年内到達も視野に入る水準です。
 
TPIの実際
鳴り物入りで導入されたTPIに関しては懸念通りの着地になったように思います。ECBはこうした域内債券市場の危機に対してドラギ元ECB総裁が「ユーロを守るためならば何でもやる」といった有名なスピーチを行い、その結果として無制限国債購入プログラム(OMT)を2012年に導入しています。これも分断化に対応するスキームだったはずであり、「これを何故使わないのか」という疑問点は7月会合前から指摘されていました。

この点、ラガルド総裁は「OMTも政策波及経路の修復を目的としたものだが、それはユーロ崩壊のリスク(redenomination risk)や特定国のリスクに焦点を置いたもの」と述べています。片や、TPIは「全加盟国が適用対象(all members of the euro area can be eligible)」と全ユーロ加盟国を対象にする点で異なるというのがECBの言い分です。

もっとも、会見を読み込んでも、両者の境目は良く分かりません。実際、ラガルド総裁は域内債券市場の安定化についてはPEPP再投資の柔軟化、OMT、そしてTPIの3つの手段がツールボックスにあり、いずれも運用可能だとも述べています。TPIの詳細に関する公表文にもOMTの存在が併記されました。足許の市場分断化問題に際してOMTを使う可能性がゼロではないようにすら見えます。冒頭述べたように、基本的にはPEPP再投資の柔軟な活用が「最初の防御壁」であり、TPIは「使わない方が良い」とラガルド総裁も明言しています。よって、極力手持ちのカードをたくさん見せることで域内利回りの低め誘導を図りたかったというのがECBの本音ではないかと思います。

しかし、既に図に示したように、イタリア国債利回りは会合後、逆に上がってしまいました。これはTPIの発動条件が厳格過ぎるために「使えない」と判断した市場参加者が多いことを示唆します

ECBはTPIの利用に際し、4つの条件(①EUの財政規律を順守していること、②深刻なマクロ経済の不均衡を抱えていないこと、③政府財政に持続性が認められること、④健全かつ持続可能なマクロ経済政策運営が認められること)を提示しました。この4つの条件をクリアした上でECBが政策効果の波及に関する計数なども包括的に評価し、TPIの利用を決断することになっています。こうした条件を付けることはドイツなどからの要望でしょう。

しかし、真っ当に考えれば、①~④を満たすような加盟国は最初からTPIを頼りにすることは無いはずです。実は、これと同じ議論はOMT導入時にもあり、結局「抜かずの宝刀」として現在に至るまで使用されたことがありません。長くECBウォッチをしている市場参加者にとっては完全に二番煎じであり、「政策の焼け太り」とも言えるような状況に思えます。
 
前門のリセッション、後門のインフレ
いずれにせよ今後2年弱にわたりHICPが+2%を大きく超える以上、ECBがこれを放置するのは現実的ではありません。現状を踏まえ「リセッションを念頭に金融引き締めが停止するのではないか」との照会を頻繁に受けますが、それはあり得ないと筆者は思います。米国ほどではないにしろ、ユーロ圏でもサービス物価がインフレを押し上げ始めています。「リセッションを念頭に金融引き締めが停止する」のではなく、HICPを収束軌道に乗せるためには「リセッションが起きるまで金融引き締めを続行する」というのが望む、望まないにかかわらずECBが追い込まれている状況に思えます。

「前門のリセッション、後門のインフレ」だとすれば、前門に向けてアクセルを踏み続けるしかない状況であり、これは程度の差こそあれ、日本以外の先進国中央銀行に共通していると言えます。

ECBの政策、いずれ政治リスクに繋がる懸念も
但し、強弱入り混じる19種類の経済を抱えるユーロ圏は金融引き締めが与える深刻度、より具体的には「リセッションの深度」もまばらになります。引き締めを続ける過程で一部の脆弱国が利上げに耐えかねるほど深刻なリセッションに陥り、それ自体が当該国における左右両極からのポピュリズムに直結する懸念はあります。もちろん、そうならないためのTPIのはずですが、果たして迅速な稼働に至るのでしょうか。既述の通り、市場参加者は難しいのではないかと考えている節があります。筆者もそう感じます。

かつて欧州委員会がその収拾を主導した欧州債務危機では結果的に反EUという憎悪が各国で膨れ上がりました。それがギリシャの「SYRIZA(急進左派連合)」やイタリアの「同盟」という形で政権化し、金融市場を再三揺るがしたのです。一方、今回は欧州委員会ではなくECBがインフレ抑制を主導していますが、EU/ユーロ圏という大きな枠組みの中で単一の政策対応を「無理強いされた」と感じる加盟国が出てくるリスクは残ります。

日常生活に痛みを覚える市井の人々からすれば欧州委員会もECBも「EUの政策を押し付ける者」という意味では同じであり、かつての政治危機が繰り返される心配を抱きます。

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