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なにかが終わりかけているー これから会社はどうなる?あなたはどうする?(上)

そこには、平安時代の奈良と京都、大阪・滋賀・和歌山があった。1200年前の空気が漂っていた

先月逝去した父の供養にと、唐での修行後に、帰国後、第三代天台座主となった慈覚大師円仁が仏教をみちのくで広めるために開いた山寺立石寺、平泉中尊寺と毛越寺、松島瑞巌寺を巡った。

その道を、330年前に芭蕉も歩いた

夏草や 兵どもが夢の跡
五月雨の 隆残してや光堂
閑さや 岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉「奥の細道」

江戸時代の元禄2年(1689)の
松尾芭蕉の奥の細道は、この四寺を巡った
山寺の千段の道を歩いて
芭蕉が古寺を訪ねて
閑さや 岩にしみ入る蝉の声」
に込めた想いや空気が
立体的に読み解けた

現地に行かねば、句はたんなる十七文字だが
現地を五感でつかむことで、句は動画となり
芭蕉の世界観を感じられた

仕事もそう
いつものオフイスや工場を出て
テレワークの家を出て
現場に行くと
現場ならではの
新たな何かを発見することがある

現場に行き、現場の人と仕事をすると
本題以外の情報が入ってくる
雑談、余談を語り合ったり
別の場所に移動したり
食事をしたり酒を飲んだり
という予想外の展開もあり
現場ならではの発見があった

その現場が遠くなっている

情報化の進展、業務と要員の効率化で、現場が遠くなり、テレワークが普通になり、現場がより遠くなっていく

そのセンスを忘れかけている人が増えている
そのセンスをそもそも知らない若者が増えている

現場・現実・現物を経験してきた人たちは
リアルとオンラインのハイブリッド
行ったり来たりして
生きているが

現場に行く
現地で現場の人と話をする
現物を見に行くことの

意味が分からん
面倒くさい

利便性・効率性で
インターネットやスマホや生成AIで十分
という人が増えている

現場に行くと
人の様子が分かる
観察できる

会議は
会議をするという目的で集まり
なにかを決めたり
なにかを着想・発想したりと
なにかのアウトプットが求められるが

リアルの会議では
アウトプットを導きだすプロセスを
五感で同時体験できる

誰かが喋り
誰かが答え
誰かがどんな反応をしているのか
会議全体がどんな空気・光景
になっているかが
見える、感じられる

しかしオンライン会議では、
その時、誰と誰がどんな雰囲気で喋っているのか
誰と誰がどんな雰囲気で黙っているのか
他の人がどのような反応をしているのかが
見えない、感じられない

現場で話をしていると
自分の目の前の人が
どんな雰囲気なのか
何をしているのかが
見える、感じられる
状況が五感で理解できる

コロナ禍3年半の現在地
その感覚、センスが薄れつつある

会社はどうなっているのだろう

何兆円と売上があがっている会社であろうと
会社の規模やブランドで
ビジネスがまわる時代は
30年前に終わっている

会社の規模が小さかろうが大きかろうが
相手も人間なので

なにか仕事を頼むとき
会社の大きさやブランドだけで
選ぶという時代ではもうなくなっている

自分の会社にとって
価値があることを
意味があることを
提案して、それを実現してくれる会社を
選択するのであって

大きな会社だから
有名な会社だから
仕事が回ってくる
という時代ではない

大きい会社も
選択される時代である

なにかが終わっている

では、なにが終わっているのか?

会社の業が終わっているというよりも
そこに勤めている人の感性が終わっている

そもそも会社の業とはなにか?

日本型資本主義は
ずっと変わらぬ規制・制度のなかで守られ

安全性を担保して投資を行い
インフラ・設備を形成することで
そのリターンで
長期間の利益をため込み、資産を形成してきた

こうして
古い会社は、各業界がつくったゲームのルール
これまでの資本投入の蓄積の成果として
絶対的な優位性という地位をつくりあげた

それが、これまでの真実だったということは
新規参入がなかなかうまくいかなかった
日本企業の事例が物語っている

戦前、戦中、戦後、高度経済成長、バブル期に
人口は増加・経済が成長するということを前提に
会社は資本投入して
インフラを形成しつづけた

既にあるものを現在使って
業界独自のゲームのルールで
売上をあげ、利益をあげる

日本社会は先着者が独り占めしてきた

なにも持たずに新規参入した会社は
ゼロから始めないといけない
自分たちで始めないといけない

先着者は新規参入者の邪魔をする
だから四苦八苦する

JTC(伝統的日本の大企業)と揶揄される会社は
長年、累々と資本を投下した結果の設備力を持って
業をしているという意味では
(劣化が甚だしいという要因もあるが)
現段階での競争力は維持できていると思っているだろうが

人はそういう訳にはいかない

伝統的な大きな企業であろうと
ベンチャーであろうと
令和元年に企業に入った人がいたとしたら
その人の力は変わらない

そのことに気づかないといけない

なんとなく
私たちの会社は強いから
私たちは大きいから
という共同幻想のもとで

業をするというのはおかしい

なにかのビジネスで、他企業と競争するときに
「わが社は世界の〇〇だぞ」と

相手に譲歩してもらって
相手に畏れられて
当然だろう

と考える人がいるが

そもそも、企業という存在と
企業人のあなたという存在はちがう

最近の事例

外国資本が買収されたら
あなたは
不良在庫として
処分されるかもしれない

会社というものが
資本で競争力を創っているとしたら
会社は株という所有で
支配されているわけだから

株が万が一誰かのものになったら

共同幻想
僕たちは強い
私たちには伝統があると
いっても

それがなんなの?
あなた、いらない
と言われるかもしれない

そんな不安に直面している

西武・そごうがなぜストをしたかというと

あなたは、いらない
というレッテルを押されるかもしれない

という不安があるからではないか

雇用を維持すると言っているが
若い人を新たに採用して
給料の高い生産性の低い年配者を辞めてもらおう
となるかもしれない

と考えるのが通常の企業行動だとしたら

雇用の維持というのは、頭数

1000人を雇用していて
1000人の雇用を確保するけど
中身は全部、入れ替える

こうなるかもしれない

では、会社はどうなる?あなたは、どうする?
それは次回以降に

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