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経常収支、本当の読み方~符号ではなくキャッシュフローで~

円高の理由は「売られ過ぎたから」
ドル/円相場は一時145円を突破して以降、直ぐに反転し、本稿執筆時点では138円も慢性的に割り込んでいます:

円高が進む背景については様々な理由が取りざたされているものの、7月に入ってからの材料はどれも決定打に欠く印象です。ひとえに「売られ過ぎたから」ということではないかと考えております。7月2日時点のIMM通貨先物取引に見る対ドルでの円の売り持ち高は152円を記録した昨年10月よりも高水準にあり、円安が進むにしても利益確定のためのポジション調整が必要という状況にありました:

まとまった幅の調整を経て、その後、どのような展開を探るかという大局観で相場を評価するべき時間帯と考えます。
 
大事なことは経常収支の「符号」ではなく「キャッシュフロー」
大局観を掴むには需給環境を丁寧に見る必要があります。この点、7月10日に財務省から発表された本邦5月国際収支統計では、経常収支が+1兆8624億円の黒字となり、ヘッドラインでは4カ月連続黒字や前年同月比2.4倍という前向きな表現が踊りました。そもそも経常収支や貿易収支(しかも原系列)を変化率(や倍率)で表現することに意味があるとは思えませんが、経常収支が改善傾向にあることは事実です:

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA092N60Z00C23A7000000/

しかし、国際収支統計が公表されるたびに筆者が思うことは未だに「経常黒字である」という事実一点をもって、強い安心感を持ちたがる論調が根強いことだ。具体的には経常黒字を見て「去年は『悪い円安』と言っていたのに」とか、「去年は『成熟した債権国』としての危うさが話題だったのに」とかといった論調です。こうした論調は極めて表層的と言わざを得ません国際収支と為替の現状ついて真摯に向き合っていないとも言えます

確かに経常収支は赤字よりも黒字の方が安堵感を覚えますが、名目・実質双方のベースで円安が続き、実質ベースの国内賃金も下落する中、なぜ経常黒字であることにそこまで万能感を覚えられるのでしょうか。その理由が筆者には全く分かりません。

経常収支について黒字か赤字かという「符号」の議論に拘泥してしまうのは、ひとえに経常収支にまつわる実務的なキャッシュフロー(CF)について理解が不足していることが原因でしょう。類似の議論は過去のnote『32年連続世界最大の対外純資産国の意味~「戻ってこない円」という争点~』でも取り扱っていますが、今回はさらに違う視点から議論を深めてみたいと思います:

まず、経常収支と相場環境を簡単に見ておきましょう。確かに経常収支は4か月連続で黒字を記録していますが、本稿執筆(7月10日)時点で年初来の円相場は対ドルで▲7.2%、対ユーロで▲10.5%下落しています。言うまでもなくG10通貨の中で最弱です:

また、名目実効為替ベースでは▲2.2%、実質実効為替ベースでは▲3.3%下落しており、円全面安と言って差し支えありません。もっと言えば、2022年通年で経常収支は+11.5兆円の黒字でしたが、円は対ドルで最大▲30%以上、通年でも約▲15%下落しています:

こうした状況を踏まえる限り、日本の経常黒字が、その符号が示唆する通り、円買い圧力となっていない可能性を疑うのが自然ではないでしょうか。しかも、2022年11月から足許までの間にFRBの利上げが+75bpから+25bpまで縮小され、一旦見送りまで決定される事態に至っているのに円安は進みました。足許の137-138円とて、年末年始時点では想定されることは無かったほどの円安水準のはずです。


こうした状況を考える上で、経常収支に象徴される需給構造の変化を考察する余地はないだろうか、というのが筆者の問題意識です。経常黒字拡大を受けて昨年の最悪期が終息したかのように囃し立ててしまうのは、その符号や黒字水準の増減だけに目を奪われ、経常収支に伴って発生するCFの実態に関心を持っていないからです。あまり深く考えていない、とも言えます。

経常収支と為替の関係を考察する上で重要になるのはヘッドラインで発表される符号ではありません。実務的にどのようなCFが発生しているかです。昨年、符号の議論が騒がれたのは経常赤字という日本経済の歴史に照らせば極めて珍しい事象が起きていたからというのもありますが、「巨大な第一次所得収支黒字を食ってしまうほど大きな貿易サービス赤字」が歴史的円安の主因だったからです。経常収支の符号それ自体が本質的に重要だったわけではない。あくまで為替市場への影響を考えれば、アウトライトの売買が発生する貿易サービス収支に着目するのが王道です。ちなみに、サービス収支から漏出する外貨の経路も現在では多岐に渡っており、これも構造変化の一端を示す議論として重要なのですが、これは既に別のnoteで解説済みです:

https://comemo.nikkei.com/n/n62a1fc0f9663

 
CFベースの経常収支という仮説
ではCFを加味した第一次所得収支ひいては経常収支を見てみましょう。2022年の第一次所得収支を受取ベースで見ると2022年は約50兆円ありました。このうち証券投資収益は18.5兆円、直接投資収益は27.6兆円、その他投資収益は3.7兆円です。証券投資収益の殆どは債券利子と配当金であり、普通に考えれば外貨のまま再投資される公算が大きいと推測されます。また、直接投資収益のうち約半分の13兆円は再投資収益です。これは確実に円転されません。まとめると第一次所得収支(受取)の50兆円のうち7割相当の約31.5兆円(18.5兆円+13兆円)が円転されていない恐れがありまます。裏を返せば、3割相当の約18.4兆円しか円買いに繋がっていない可能性があります

これらは受取ベースの議論なので、支払ベースでも同じ議論をして、収支の仕上がりを評価する必要があります。支払は約14.7兆円あり、このうち証券投資収益は約8.2兆円、直接投資収益は約4.4兆円、その他投資収益は約2.0兆円でした。上記の日本の例に準拠し、証券投資収益(8.2兆円)と直接投資収益の中の再投資収益(約1.7兆円)は外貨に転じられない(円のまま残る)とすると、支払ベースでは約4.8兆円の円売りになります。

以上をまとめると、2022年の第一次所得収支黒字における本当の円買い部分は約13.6兆円(18.4兆円-4.8兆円)となり、これがCFベースの第一次所得収支黒字ということになります。公表値の約35兆円とはかなり乖離があります。「2022年の経常黒字が+11兆円あっても、大幅な円安が進んだ」ことの理由として1つの仮説にはなると思います。少なくともドル/円相場で起きていることの森羅万象を日米金利差だけで整理しようとするムードに対し、こうした論点が付け入る隙は十分あると筆者は思っています。

この上で2022年を例に取れば、貿易サービス赤字は約▲21兆円を記録し、この殆ど全ては円売りとして為替市場に現れていたと思われます。先述の通り、CFベースの第一次所得収支黒字が約13.6兆円しかないのだとすると、CFべースの経常収支は▲9兆円ほどの赤字だった疑いがあります

ヘッドラインの経常黒字はあくまで「会計上の黒字」であって、それら全てが円買い圧力になっているわけでは全くないことが分かります。

ちなみにCFベースの経常収支が2022年と匹敵するほど赤字(▲9兆円以上)だったのは2013年と2014年だが、いずれの年も円は対ドルで▲10%以上下落していました。当時は異次元緩和に象徴されるアベノミクスが最も取りざたされていた時代であり、「円安は日銀の金融政策に起因するもの」という言説が支配的でしたが、本当にそうなのでしょうか。もちろん、無関係とは思いませんし、FRBの正常化プロセスへの転換や欧州債務危機の終焉といった外部環境の改善もあったとは思います。しかし、日本の対外経済部門に目をやれば「円を売りたい人の方が多い」というシンプルな需給が整いつつあったのが2013~14年頃だったという考え方も捨て置けないものではないでしょうか。

もちろん、これらは筆者の仮説です。しかし、ドル/円相場の方向感を日米金利差だけで語ろうとしたり、株高のムードにかまけて円安の弊害をなかったことにしようとしたりする論調にはあまり賛同できません。日米金利差だけで2022年のドル/円相場は40円弱も円安になったというのでしょうか?実効ベースでドル安だった2022年3月から円安が始まっている以上、その説明には無理があると筆者は思っています。

歴史的と呼べる円安局面はもう1年4か月以上続いています。その真偽はともかくとして、歴史的な相場を前に歴史的な(そして恐らくは構造的な)変化の可能性を考えるのが真っ当な分析姿勢ではないでしょうか。

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