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老若は関係ない。他者は絶好の教科書。学ぶべし。

今回の日経COMEMOお題はこちら。

筆者が務めるプリファードネットワークス株式会社には、筆者から見たら自身の子供でもおかしくないような年齢のエンジニアが多数活躍している。
彼らは非常に優秀で、理系的素養のない筆者にもわかりやすい表現で、コンピュータそのもの、深層学習、その手法などといった、難しい概念を授けてくれる。お陰でここ数年、筆者のこれらに係る理解・感覚は飛躍的に向上した。

彼らが知識を共有してくれるのも面白いが、経験を語ってくれるのはさらに面白い。
彼らが仕事や、現実の課題にどのように対峙し、知識を援用して解いていくのか。
どのように問いを設定するのか。
考える糸口はどこからアブダクションしてくるのか。
点と全体、具体と抽象をどのように行ったり来たりするのか?

こうした話は、筆者の好奇心を大いに刺激し、それまで自身が持っていた概念や考え方と再構築され、本来の専門であるマーケティングにも非常に役立っている。

ところで、この事実を持って、筆者は胸を張って「若手から学んでいる」と言えるだろうか?

残念ながらそう簡単にはいかない。
筆者にとっての若先生たち、多くは、すでに役員のポジションにあったり、Kaggleという有名なプログラミングコンテストの世界ランカーだったり、数学オリンピックのメダリストだったりと、若いながらも実績十分である。つまりは、オーソリティと呼ぶのに十分な存在であり、筆者は彼らのオーソリティ性に服従しているだけなのではないか、と考えられるのだ。

では、そういう実績をまだ持っていない若先生方はどうか?

実のところ、彼らも、オーソリティが認めていたり、一目置いていたりするキレキレの実力者であり、いわば準オーソリティとでも呼べる軍団。かくして「若手から学んでいるか?」という筆者の自問自答には暗雲が垂れ込めた。

お題に答えるためには、自問自答を続けねばならない。苦しいが。

勤務先から一旦離れて考えてみる。筆者は、若者一般から、学んでいるだろうか?
そもそも、若者に対してどのように接しているであろうか?

胸に手を当て、自分の振る舞いを思い返してみると、どうにも年上然とし、「教えてあげる」的なスタンスをとりがちである自分を発見し、冷や汗をかく。

なぜ筆者は、そのような態度に出てしまうのだろうか?

若いか若くないか、の差は、生きてきた時間の差であり、経験の量の差であり、見てきた風景の総量の差である。

つらつら考えてみると、筆者はこの一般的な考え方を拡大解釈して、自分の方が相手の若者よりも見識を持っている、という錯覚に陥っている、としか思えない。

だが、常識的に考えてみれば、この広大な世界を見聞・吸収・解釈するには膨大な時間がかかる。この巨大さの前には、30年生きていようが、50年生きていようが、大差はない。

というよりも、この巨大な世界に対して、接してきた時間がたかだか30年や50年程度では、その重なりはほとんどない、と考えた方が妥当である。

さらに、見てきた世界は一人ひとり異なっていても、それを感じる感覚器・解釈するCPUとしての機能は、同じ人間であればかなりの共通性がある。
換言すれば五感や感情のパターンなどは、個人差はあれど、大局的には大同小異なので、他人の目を通じて、他人が獲得した知識・経験も自分のそれとして援用可能なのだ。
(いうまでもなく、これらは哲学的な論証ではなく、一般的な常識として語っている。念の為)

もう一つ、以下の記事にも指摘したことだが、人の環境はそれまでの自身の経験の合わせ鏡であり、相当意識的にかからないと、直線的にしか拡大しない。これはつまり自身から見える景色は、簡単に変えることができない、ということである。人は放っておくと、世界の中の、似たようなところばかり見てしまうのだ。

https://comemo.nikkei.com/n/n550a40377968

こう考えると、他者から学ばないなどという態度は、勿体無い以外の何者でもない。オーソリティの有無は関係ない。老若も関係ない。なるべく多くの人と語り、その知識・経験を共有すべし。われ以外、みな我が師とはよく言ったものだ。

元々の題意「若手から学んだこと」からはかなり離れてしまうが、とにかく意識的に他者から学ぶべし。そうすればするだけ、自身の見識は広がっていく。

筆者はそうしようと思う。読者の皆様はすでにそうされているだろうか?




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