インバウンド論議を「孤立させない」 ー 文化・ビジネスの全体的構図を描く
日本のなかで「インバウンド」が盛んに語られるようになったのは、2010年代半ば(東日本におきた大災害の2-3年後)だと思います。このテーマ、どうもふらふらしている印象があります。経済効果としての是非ではなく、インバウンドがもつ最終的な意味が定まっていないのが要因だと思うのです。
例えば、イタリアの人は「イタリアの役割は世界に歴史のあり方を示すことだ」「イタリアのライフスタイルは自由時間を重視するところにある」と話します。それが国際的に通用します。つまり、イタリア以外の人はそれを聞いて、「そうだろうな」と納得しているのです。外国人は、これらを実感するためにイタリアを旅するのです。そして、自分の生活に取り入れたい、あるいはたまに接していたいと思うのです。
日本の人々の間で、このような観点がおおまかにせよ、合意されていない。その結果、インバウンドの大枠が曖昧にしか見えません。
そして、これがMade in Japanの企業が外国企業とビジネス交渉をする際、不利な状況をつくる遠因となっています。
どういう意味でしょうか?今回は、その解説をしてみます。ぼく自身、インバウンド促進に反対なのではなく、賛成です。しかし、インバウンドを孤立させるのは適切ではないと言いたいのです。
日本でのインバウンド議論の弱点
今後、経済的な大きな飛躍が望めないところで、「日本は世界の京都になるのが良い」との意見をわりと見聞きします。このような表現を使わないとしても、経済国家としての下り坂をうまく降りる先には、自然、料理、文化、国民性を売りにしたインバウンドが産業として相応しいと「落日の美学」として引用されるのです。
だからか、「経済的な欲」はインバウンド圏内のロジックで完結させることにどうしても集中しやすい ー家電や自動車の輸出産業亡き後の姿として。日本滞在期間が必然的に長く、平均所得も高い遠距離の欧州・北米・豪州の人たちに如何にお金を落としてもらうか、との点に戦略が局地的に絞られやすいのも、その一例です。日本企業の生産性の低さとの「謎」も、ここではさほどマイナスになりません。
もちろん、経済的な恩恵が得られるのはベストです。
他方、お金のある外国の人たちの要望に一生懸命に合わせても、観光客は見透かします。滞在地が「それだけのロジック」で回っていることに魅力を感じません。地元の人たちと付き合うのなら、その人たちの人生観やライフスタイルに刺激を受けたいわけです。
海外から日本にやってきた人は、「細かいことに気が付く」「丁寧だ」と日本の人を褒めます。だから、これらの点が観光客に影響を与える、ともいえる。それをどう解釈するか?です。
他のビジネスの場で「日本の人は細かいことに配慮しながら長時間働くのに慣れているから、無理がきくだろう」「自分を殺して働くのが日本の文化のようだから、厳しい人件費でも仕事を受けるだろう」との判断の根拠に使われるとしたら? こうなると、外国人の観光経験が、日本企業の対外ビジネスを苦境に陥れる導火線になってしまいます。
LVMHは地場産業やクラフトの評価を明示化
5月初め、フランスのハイエンド・コングロマリットであるLVMHが、日本のクラフトや素材企業との取引に力を入れたいとの意向がはっきりさせました。
既に日本の素材や職人の手による製品がLVMHの製品に使われていますが、多く、それらの取引は実名で公表されていません。LVMHが発注者として供給者に「公表してくれるな」と、これまで守秘義務を要求してきたのです。しかし、その方針をこれから変えていき、日本の地域や企業の名前を明示していくと、会長自らが表明しました。
生産プロセスを透明化していくのは、サプライチェーンのガバナンスを明確にする姿勢の表れでもあり、その根底には、少なくても「人が人として扱われることが第一」との思想がないと話になりません。「〇〇ウォッシング」と批判されるかどうかはさておき、です。
この話題について、ぼくは一つの懸念をもちました。下記です。
Made in Japanの企業がLVMHとビジネス交渉するに言いずらいこと
日本の人たちが、この方針変更を受けて何を考えるべきか?です。それが冒頭に書いた、インバウンドのもつ最終的な意味と関わってきます。そして、上記で引用した「あなたも、我々と仕事をしたいなら、我々のようなライフスタイル哲学を良いと思うだろう?そう思わないなら仕方がない。だが、良いと思うなら、それなりの経済的評価もしてくれよ!」に繋がります。
例えば「Made in Italy とMade in Japanの違いは何か?」と問われたら、ぼくは前者には人生観が反映されているが、後者には人生観が反映されていない、と答えます。前者には自由時間を大切にしたいとの社会的な願いがありますが、後者には「現役世代が使える合意された人生観」が十分に定着していない。それが結局において、上記の「この人生を送るのに、これだけのプロフィットが欲しい」と言い切れるか?どうかの差をつくっているわけです。
哀しいことに、日本の高度経済成長期にあった「ウサギ小屋のような家に住んで、夜遅くまで働き続ける」とのイメージは、実態として変わりつつありますが、日本の企業とつきあう多くの外国の人のなかには根強く残っています。「仕事をする相手としていいけど、生活する場としては・・・」と口ごもる背景です。
日本の文化を愛する外国人も増え、日本語を読み書きする外国人も増えたにも関わらず、Made in Japanの人生観が良いものとして評価され、そのために価格交渉の場でMade in Italyのように「私たちのライフスタイルへのリスペクトにあわせた価格を受け入れてくれ」と言えるような状況とは言い難いのです。
これから何を考えてゆくと良いのか?
したがって、まずは人生観 ーもちろん、人によってさまざまですがー が、実は大きなビジネス環境にも大いに影響することに気がつかないといけません。
例えば、「余暇が大切です」とは「仕事の合間の時間が大切です」となります。その時間は二義的です。「自由時間が人生において大切である」と言えば、それが第一の目標になります。気休めに家族や友人と時を過ごすのではなく、それらの周囲の人たちの笑顔に接するのが生きがいと感じられるのを優先するわけです。
社会的責任を重視する外国の企業のバイヤーも、日本の人も自由時間が第一なのだと分かれば、「もっと時給を安く見積もってくれ」「作業時間を増やして生産量を確保してくれ」とは明言しずらくなります。
このようなことは、国内の社員の働き方というレベルや下請け保護との次元では言及される内容ですが、それがいったん外国企業との取引になると視野から消えていく。しかも、インバウンドにおいては、もっと視野から外れている。これらをすべて同一の風景のなかに入れないと、歪なイメージやロジックは改善されにくいと思うのです。
長時間労働が当たり前と思われている国の職人が長い時間をかけてつくる工芸品より、自由時間が中心の社会で長い時間をかけて作られる工芸品の方が高く評価され、それ相応の価格を受け入れてくれるはずなのです。この当たり前の論理を忘れないで欲しいなと思います。
下記の社説で以下の記述がありますが、インバウンドは、これまでに述べたような意味でも大切なのです。
写真©Ken Anzai , 南チロルにある写真の美術館です。