自転車に乗るということ
GWに家族と、瀬戸内しまなみ海道をサイクリングした。広島・尾道を出て瀬戸内海の島と島をわたり、Well-Beingってなんだろうかをゆっくりと考えようとしたが、途中から無心に自転車のペダルをひたすら漕ぐことになった。
1.自転車は〇(まる)
自転車は○(まる)。車輪やベアリングの形は○。自転車に乗った仲間が揃えば丸く並ぶ。人が集まれば、円になって輪となって和がうまれる。自転車にはそんな多様性があふれ、とても日本的な「道具」といえる。自転車の持つ日本性とはなにか?
世の中の基本構造は「○」
古来、日本の家族は火を囲み、円になって食事をしたり、団欒を囲んだ。縄文時代の家は円形、集落も円状に並んでいた。円は、全員が中心から等間隔に位置し誰かの話を全員が等しく聴けて共有できるという構造である。
盆踊りもキャンプファイアも円。円の真ん中は空で、円周上のどこにいても等距離という位置関係は日本社会の基本であり、人と人の輪・和・縁(ネットワーク)を育む構造として、過去から現代に承継してきた。
このように物事には、ずっと変わらないことと、ずっと変わりつづけることがある。そこに真理がある。
変えてはいけないこと
変えなければいけないことがある
昔からずっとつづけてきた、この日本社会のメカニズムが崩れだしている。変えてはいけないことを変えてしまうようになった。変えなければいけないことを変えなくなった。それは、当初は目につかないが、後で気がつく。昔ならば影響が出てくるまでに時間がかかったが、ネット・スマホ時代の現在はその影響は一気に、そして広く深く出るようになった。
2.自転車はなぜ「自転車」というのか?
自転車という言葉は、不思議な言葉である。なぜ「転」が入るのか。なぜ自ら動くという意味の「自動車」とならなかったのか。自転車は自らが動いて目的地にたどり着く移動道具である。自らが動かすので、自動車と翻訳してもよかったはずだが、自転車になった。
この2つの輪を表す道具である「bicycle」を自転車と翻訳した日本人。ここに日本人の世界観が入る。自転車の「転」とはなにか。「転」の旧字は「轉(ころ)」で、ころがすという意味。自分の意志で、前に進み、行きたいところに行けるという自由が「自転車」に込められたのではないか。
自転車はA地点からB地点に行くための移動道具。その道中、気になることがあれば、C地点にもD地点にも寄り道ができる。自転車に乗って、いろいろなところに行って、見たり聴いたり触ったり嗅ったりすることで、知性と感性が磨かれる。自転車に乗るということで、そういうことが得られる。「轉(ころ)」という漢字の本領発揮である。
3.自転車の本来性とは
自転車は人力。自らの力で「轉(ころ)」がせ、自分がとまりたいところに、自転車をとめることができる。自動車もとまることができるが、どこでも自由にとめられるものではない。ましてやバスや電車のような交通機関は、自分がとまって欲しいと思うところにとまってはくれない。
自転車は乗って走るものだが
自転車は押して歩いてもいい
こんなことは、他の公共交通はできない。自転車は、自分にも相手にもあわせられる道具である。自転車を押して歩けるということは、「移動」するための道具のなかで、最も「人間寄り」といえる。しかし自動車や電車は、乗る人がそれにあわせないといけなく、「道具寄り」である。これが自転車の本質である。
急ぐときは、自転車のペダルを漕ぐスピードをあげたらいい。のんびりと行きたいときはゆっくりと漕いだらいい。この山道は危険だから注意して行かないといけないので、押して歩く。だれかと一緒に移動するときは、相手のペースにあわしたらいい。このように自転車は自らでコントロール可能で、自分についてきてくれる「相棒」存在でもある。
コロナ禍のなかで、自転車に回帰している。それは人と自転車の関係性、自転車の持っていた本来性が再発見されつつあるからかもしれない。自らの想いで、自転車の使い方を自由に変えることができる。急ぐときはスピードをあげる。のんびり行きたいときはゆっくり走ったり押して歩く。自転車は極めて人間的。
4.人と技術のこれからのカタチ
三密回避などで移動制約に強いられたコロナ禍のなか、人々は自転車の本来性に気づきだした。気づいたのは自転車だけではない。
オンライン化によるテレワーク・ホームワーク、リモートワークというビジネススタイルの変化によって、人々の価値観が大きく変わろうとしている。どこかに忘れてしまっていた大切なことを、コロナ禍で思い出しつつある。そのひとつ
食卓を見つめ直しはじめている
いつからか私たちは食卓に並べる料理をまず考え、その料理をつくるための食材を調達しようとするようになった。今晩、肉じゃがにしようと考え、スーパーに行って人参・白滝・じゃがいも・牛肉を買う。レシピを見ながら調理して、「肉じゃが」をつくって食卓に並べる。さらに冷凍の「肉じゃが」セットが開発されてスーパーに並びだしたので、それを買って解凍したら10分で、食卓に並べるようになった。どんどん便利に、どんどん時短になり、美味しく食べられるようになった。そのことはいいことだが、なにか足りないことがある。
昔はちがった。市場に並ぶ食材をいろいろと見て歩き、良い食材はないかとさがし、”この食材をビーフシチューにしたら、家族のみんなは喜んでくれるのでは”と発想し、その食材を買って、調理して食卓に並べた。本来、料理は
食材を吟味して、つくるものを決めた
今でも本物の料理人はそうしている。毎日、市場に行って、その日の最高の食材を見つけて、その日のお客さまにお出しする料理を考えている。この料理をつくるために食材をさがすという流れではなく、その日の食材の特性をつかみ、それぞれの良さ、組合せの妙を考えて、その日の料理をつくるというのが料理の本来性だった。つまりその日の食材から、その日のお客さまがその料理を食べて「美味しい!」とお喜びいただける姿を
想像できる力が大事
そんなものづくりから、ちょっとでも楽に、簡単に、効率的に、仕事を進めようと、IT・AI・DX・ロボットなど「道具」をメインにしたものづくりを推し進めようとている。それぞれの道具の機能は高度化するが、全体が見えなくなり、ものを創りあげるプロセスがブラックボックス化して、中味がスカスカになってしまった。
道具がまずありきとなり
人が道具にあわさないといけなくなった
そうして人の力がおちていった
自転車の話に戻る。
コロナ禍のなか、私たちは自転車の本来性に気づいた。自転車という道具を自由自在に使って、自らがしたいこと、好きなことができるということに気づいた。そのスタイルは、人が主で自転車はあくまで従である。
しかし道具は人にとって大切な相棒であり、道具が持つ強み・本来性を人が理解して、人と道具、人と技術で、ともに創りあげていくスタンスとスタイルが大切である。これこそがWell-Beingを実現する、これからの技術と人の関係のカタチではないだろうか。