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「正しさ」はひとつではない

昨今の新型コロナウィルス問題に関しては、あらためて「何が正しいのか」、と考えさせられることが頻発している。

以下、事例として挙げているものについては、特定の個人・企業やその見解・施策について、批判することを目的としたものではないことを先にお断りしておく。それこそ、ここで書こうとしているとおり「正しさ」を判断することは難しいからだ。

たとえば、昨今相次ぐリアルイベントの中止だが、こうした動きを先取りしてヤフーは100人以上のイベント参加を2月14日に禁止した。

しかし一方で、乗車定員が100名を軽く超える東京の通勤電車にヤフー社員が乗ることには、この時に何の言及もなかった。首都圏の通勤電車1両あたりの定員は、おそらく最も少ないであろう銀座線車両でも100人山手線などだと平均して150人前後になる。これは「定員」なので、実際の通勤時間帯には定員の150%を超し、中には200%近い混雑の路線もあること、しかも他人との距離の近さはイベント会場の比ではない「濃厚接触」であることを考えると、こちらの方がずっと感染の危険性は高いものと思われる。

その後、大手企業を中心にリモートワークが実施されるようになってきたので、この点にも配慮した措置に対応がアップデートされてきている。ヤフーが上記の決断をした時点では、まだ感染拡大への懸念が今よりも小さかった。その段階でこうした決断をしたことを評価できるとともに、一方で同等以上のリスクに対して言及しなかった点は、意図的なものだったか、見落としていたかということも含めて、考えさせられる。

また、マスクの要否についても、医療の専門家と一般的な人々との間で見解が分かれた。

この記事は2月6日時点のものだが、マスクが品不足になるような事態が起き、本当に必要な人に行き渡らない現状や、記事で指摘されている通りマスクをしていることで安心してしまい、結果的に感染の可能性を広げる懸念というのは、その通りだと思う。マスクはしているがトイレで用を足した後に手を洗わない人や、鼻を出してマスクをしている人を見かけることも珍しくないことを考えると、専門家の指摘も一理ある。

一方で日本でも海外渡航履歴がなかったり、渡航者との接触が明確ではないのに感染している人が多発していること、今回のウイルスは感染していても軽症であったり自覚症状がないケースも多いという指摘を考えると、誰もが感染する・している可能性があるし、政府専門家会議の見解から日本はそういう段階に入っているということだろう。

そうであれば、専門家もマスクが有効とする「他人に感染をひろげない」ために、そして感染拡大のスピードを抑制する手段として、誰もがマスクを着用することも有効、ということになるのではないか、とも考えられる。

検査の要否についても、医療の専門家と一般的な人々との間で見解が分かれている。隣国の韓国がやっていることをなぜ日本はやらないのか、ということだ。

一方で、検査結果で陽性とわかっても、重篤な症状でない限り、特効薬もないことから通常の風邪などのように安静にして回復を待つほかはなく、検査に意味がないというのも理解できなくはない。症状が重篤であれば検査以前に医療機関を受診するだろうし、一方で自分から進んで検査を受けに行けるくらい元気であるなら、感染していたとしても軽症で、医療機関として特段の対応が出来ず、むしろそうした人が医療機関に集中することで、本来医療措置をうけるべき人に手が回らないことの方が、社会的損失が大きいからだ。

そして、感染症の専門家によるクルーズ船の状況告発は、もっともこの「正しさ」の難しさを端的に示した事例だと感じる。この告発をしたご本人を存じ上げないし、その意図もわからないが、医療関係者や本人を知るという人からは感染症の専門家として評価されているようである。そういう人が実際に短時間とはいえクルーズ船に乗り込んで実態を見た上での出した見解であるから、学問的に間違ったことを言っているということではないのであろう。

しかし、これが専門家の間だけの情報共有ではなく、Youtubeに動画が載せられ、しかも英語でも発信された。これによって、海外のメディアが飛びつき、一部ではそれを政治的に利用するともとれる動きがあった。少なくても日本が新型コロナウイルス感染リスクの高い国である、という認識をひろめるには十分であったとおもう。専門家としての見解は正しかったとしても、その見解の出し方、広め方が正しかったのかという点では評価が分かれるのではないか、ということは別の投稿で少し触れた。

今回は、たまたまコロナウイルスという世界的な問題があったことで露見したことだが、改めて思うことは「正しい」ことはひとつではない、ということだ。そして、それはひとつの「正解」を求めさせてきた日本の教育が、曲がり角を迎えていることを、端的に物語っているようにも思う。

「正しい」ことが一つだと思うからこそ「一つの正解」をもとめて混乱し、右往左往してしまうことになる。それが、「正しいことはひとつではない」と考えられるなら、自分なりの判断を「正解」だと思うことが出来るのではないだろうか。もちろん、そのためには自分で考える必要があるので、与えられた「正解」と一致するかどうかで判断するよりも、個人の負担は大きくなる。

これまでにあげてきた事例は、状況はさまざまであるが、雇用者や専門家など、権威とか権力をもつ側の人たちと、それを受け止める側の人たちとの認識のズレがある、という点で共通項がある。SNSの時代には、そうしたズレが露見していくし、そこにデマ・フェイクニュースといった問題も絡んでくる。

傍観者的な言い方になってしまうかもしれないが、民主主義をとらない中国がいかにコロナウイルス問題に対応しているかという点もふくめて、今の時代の民主主義の在り方を考える上でも、このコロナウイルスまつわる動きは非常に示唆に富むものと思ってみている。

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