日本のクラフトを欧州で売るに必要とされる視点
今週はヨーロッパから来た人たちと一緒に京都と丹後を巡る旅でした。相当に走り回りましたが、旅の終わりにふと思い出したことがあります。
内閣府のクールジャパン案件でコンセプトを決めるところから関わった、2015年にミラノで開催した「ダブル・インパクト」という展覧会とカンフェランスです。
日本のモノやコトがヨーロッパで紹介され普及した結果、その影響を受けたヨーロッパ発のものがある―オリジナルとそれらを比較すると全体像が見えてくるのでは?というのが「ダブル・インパクト」のテーマです。
これを思い出した理由は最後に書きます。
さて、アートやクラフトが国内外で話題になりやすい。その文脈で日本にあるアートやクラフトも欧州人の関心の対象になる―そこで、インバウンドの勢いもあり、ここぞとばかり、日本のそれらを国外の人たちとのビジネスに繋ぎたいとの欲求がでてきている現象があります。
今回、ヨーロッパから来た人たちも日本のクラフトをどう今と将来のビジネスに取り入れていくか?が関心のコアにありました。
ここでは「日本文化が!」と大声に語るのではない他に必要な視点について書いてみましょう。発信に重心をおき、主語を小さくとることは以前に書いたことがありますが、それらとは別のことです。
日本におけるクラフト議論の特徴
言うまでもなく、日本文化という言葉が含む内容はあまりにたくさんあります。日々の生活にある工夫や近所づきあいから文化遺産、さらには人々の行動パターンや考え方の傾向に至るまでカバーするので主語も目的語も小さくとるのは必須です。その結果、全体像が見やすくなります。
しかし、全体像が見えるだけではビジネスへの道半ばです。何らかのスタイルやテイストの枠におさめないと伝わるものも伝わりません。よく使う表現でいえば「〇〇風」です。
職域であえて示すなら、アートディレクターの範囲になります。この○○風がないと何を選んだかは傍目に分かりますが、何を選んでいないのか?それはなぜなのか?は分からないものです。その線引きが受け手でも何となくでも想像できるようなのが○○風と認知されたものと言えるでしょう。
しかし、時間を要すると言えど、このテイストやスタイルが抜けている戦略が多いのです。
現在、国外市場開拓を前提としたクラフトの語られ方にはいくつか日本の特徴があると考えています。
一つ目は、クラフトとは手作りのプロセスだけを指すことが多い、ということです。手作りが再評価されるのは良いとして、手作りだけがクラフトを指すかと言えばそうではない、というのが欧州にある考え方です。何かを作るまでの思考や議論のプロセスもAIに代替されない限り、重要なクラフトの一部なのです。
二つ目は、作家的な個人技が前面に出てアートギャラリーでしか流通するしかないようなモノなのか、スケールアウトした一般市場向けの商品なのか、この判断が曖昧であり、したがって前者を後者のために戦略的に活用するとのアイデアも生まれにくいです。そもそも、二つの市場が別々にあること自体に気がついていないケースが多々あります。
三つ目が、日本の文化とは加えるよりも削ることが特徴であるから、ミニマリズム的表現が日本のクラフトであると認知されやすいとの情報に汚染されている現実です。形状はシンプルでカラーは極力使わないーという路線に容易にひきずられるのです。紅葉を愛でるにこれだけ国外から人が来ているのに、クラフトとなると別のカラー感覚があると勘違いしているようです。殊にカラフルである必要はないですが、カラーの使用が控えめすぎるのも不自然なのです。
要するに、断片的なエピソードだけを起点に絵を描こうとしている傾向があります。当然といえば当然の仕方のないことです。しかし、同時に大きな全体図を想像してしかるべきなのですが、それなしに経験が少ないがゆえに大き過ぎる絵を描くのですね。
手を使う現場は意図的に残した現実なのか?
機械化やAIの活用が進めば進むほど、手を使うことが再評価されるのは言を待たないです。ただ、ヨーロッパ人が日本にまだ手を使う現場が多く残っていることに驚くのは、その裏にひとつの理由があります。
ヨーロッパでそのような仕事を第三国の人に任せてきたのに、先進国の日本が自国の人たちでそこをまだカバーしている、そのギャップに驚く現実があるのは見逃せないです。
そして、この現実は意図的に残っている現実なのか、意図せずに結果としてある現実なのか、ここに誤解を生む多くの要因があります。
つまり日本の人は結果としての現実であると見ていることが多く、ヨーロッパの人は結果としての部分があるにせよ、日本の人が意図的に残している現実だろうと推測するわけです。
生産性の低さの解釈が、ここで分かれます。クラフトを議論や品質管理まで含めたプロセスで測ろうとしている人たちからすれば、まったく事務プロセスとしか言えない部分をデジタル化しない日本の現場に逆に不信感を抱きます。
インバウンド増加が国際コラボビジネスの増加に繋がらない
だから、ヨーロッパの人たちは日本のクラフトに感じ入る一方で、つまりは一見の観光客として賛辞を残しながら、ビジネスとしての国際コラボに足を踏み入れるに躊躇する。これがインバウンドの増加が国際コラボのビジネスの発生に繋がりにくい背景のひとつでしょう。
さらにこの現場が安全性などに絡むさまざまな国際的認証の基準とは外れていることが多く、それなりの量の取り引き相手としてヨーロッパ本国の社内で認められにくい。たとえ、日本の中では例外規定が適用されたとしても、です。
クラフトの中規模程度の国外取り引きを推進するに、このようにいくつかの障壁があります。しかし、クラフトの現場からすれば、どのくらいの商売になるかわからないのに国際認証を受ける為の投資は決定しづらい。
これらの問題を日本側が認識していない場合が少なくなく、悪い意味での「ロマン」でヨーロッパの人たちと日本の人たちが表層を撫で合っている印象があります。
コラボレーティブなチームの構築が必要
したがって、これはそれぞれのプレイヤーが小売りまでを視野に入れたチームをつくる必要があります。クラフトは1人の職人の力を前提としながらも、コラボレーティブなシステムの構築が求められます。
今回一緒にいたヨーロッパ人は「こうしたビジネスは一回の試みでヒーローができる狩猟ではなく、集団で何度も試行錯誤する農業の発想を基にしないといけない」と話します。もともとクラフトが農閑期の仕事であったのも勘案すると、この言葉が指摘するところは興味深いです。
ある分野の経験ですべてを語らない
クラフトが対象になる分野は食、ファッション、雑貨、家具からクルマまで物理的サイズとビジネスサイズの両方で多岐に渡ります。
そのなかで、ファッションは物理的なサイズや速度の速さから、それなりに早いタイミングで商売のダイナミックに入り込める、いわば実験的経験を得やすいゾーンです。かつ、アートディクレタ―やデザイナーという存在が単独で商品企画の骨子を固めやすいものです。
だから、どうしてもアーティスト的な役割をする人がプロジェクトをリードしやすい。しかし、こうしたシステムが他の分野ーまたは素材ー機能しているかといえば、そうではない。例えば、セラミックの世界では職人の名前や産地名が前面に出やすいとの事情もあります。
即ち、クラフトを一律に捉えない。素材、分野、地域文化によってもありようが異なるので一般論に右往左往しない、ということですね。先日、欧州のインテリアテキスタイル市場へ立ち向かう場合、何を見るべきかについて書きましたが、これはファッションには適用しづらい部分が多いでしょう。
言うまでもなく、素材や分野を超えて共通する要素もありますが、必要なのは何が共通で何が違うのかを検討する反芻プロセスです。ここで最も重要なのがコラボレーティブにスタイルを作っていくプロセスです。ある産地でできないことは、他の産地に気軽に頼めるとの文化を創っていくということでもあります。クローズドでできることなんてたかが知れています。
くり返します。1人ではなくチームで、それも地域の境を超えるのが普通であるようなことがあってクラフトも国外で影響力をもつでしょう。
最後に。どうして今回の旅で「ダブル・インパクト」を思い出したか?です。日本の文化が欧州の文化に影響を与え、そこに新しいものが生れたら、それが再び日本でオリジナルとされたものに再考を迫る―即ち、コラボレーティブなプロセスが日本のなかに限定されるような陥穽に嵌らないーのが目指すところです。
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冒頭の写真は丹後半島の北東部にある伊根町の風景。
今回の旅は来月から開催するオンライン講座とはまったく関係ないのですが、クラフトとラグジュアリーを巡る議論に慣れる機会だと思うので、紹介しておきます。