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「○○ちゃんパパ」と呼ばれて、自分が薄まっていく感覚の話。

先日、例の岡村さんラジオの風俗嬢発言に関する記事を書いた。

反響は大きく、僕の意見には賛否両論の声が挙がった。

もちろん色んな意見があって然るべき記事だったが、とある批判コメントが目に留まった。それは「小島さんの記事は、いかにも男性的な考え方だ」という批判だ。

このコメントに触れて、僕は息子を保育園に送り迎えしていた頃のあるシーンを思い出した。

今日はそんな話。

■父親というレンズ

そのシーンとは数年前、僕が息子を保育園に迎えにいく際のこと。保育園の扉を開け「小島です」と保育士さんに告げると、保育士さんが「○○ちゃんパパ、こんにちは」と挨拶をしてくれる。

そんな何気ない日常のシーンだ。

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実はこれに対して、僕はいつも心の中で「順番的には○○ちゃん(息子)が『小島さん息子』ですけどね」とツッコんでいた。

もちろん、そんなことは口には出さない。彼女の視点から見れば僕は「○○ちゃんパパ」だ。何も間違っていない。常に親というレンズを通じて視られるのが、保育園という場所だ。

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しかし、この「○○ちゃんパパ」と呼ばれることに僕は妙な虚しさも感じていた。それは息子を通じてしか自分を視てもらえないという虚しさだ。

なんだか自分が薄まっていく感覚だった。

注意:この保育士さんに好意があった、とかではない

「親とはそういうものだ。」

「親にもなって、何を自己主張しようとしているんだ。」

「自分を捨てる勇気がないなら親になんてなるな」

そんな批判はあるだろう。ただ僕はこの事象を「もう純粋に人と人とでの会話をすることはできないのかもしれない」と受け取っていた。

■属性という視えないレンズ

冒頭に紹介したnoteに対する「いかにも男性的な考え方だ」という批判コメントにも、同じ類の虚しさを感じた。

僕は男性を代表して発言したつもりはない。あくまで一個人としての考えを発信をしたが、それは「(典型的な)男の意見」として切り捨てられてしまった。

直後、僕はこんなツイートをした。

これに対して「わかる。私が何を言っても『ママの意見』にされてしまう」
という反応があった。

あぁ、あの時の自分と同じだ。

そう思った。

ただ、思えばこれは今にはじまったことでもない。

僕たちは皆、この色眼鏡と戦っている。

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自分がどれだけ真剣に考えを述べても、性別や年齢、職業という属性を持っている限り、その属性は色眼鏡になる。そのレンズを通して自分を視た相手は「はいはい、典型的な(属性)の意見ね」と切り捨てる切り札を持っている。

思えば、2018年のM-1グランプリの打ち上げで上沼恵美子さんの審査に対して「更年期のオバハンの意見だ」とした批判は、この類の典型的なフォーマットだった。

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相手が自分で変えられない属性を武器に批判すれば、相手はそれを否定することができない。それ故にこの類の批判は卑怯なフォーマットと言えるだろう。

■属性に支配されない生き方

話は若干変わるが、世の中にはXジェンダーと名乗る人がいる。Xジェンダーとは、男女の性質両方を持っていると感じたり、逆に全く性別を持っていないと感じる人たちのこと。以下のデータによると、Xジェンダーは2.5%とも言われている。

Xジェンダーはまだまだ数で言えばマイノリティーだが、僕はこれをとても自然な感覚だとも思う。

正直、自分自身も身体的には男性だが「男性である」という感覚を自分で持ったのか、環境から持たされたのか、と言われると「自分で持った」と自信を持って言うことができない。

また、Xジェンダーは性別という属性による色眼鏡を回避するという意味では僕にとって1つの答えであるとも感じる。(もちろん別の悩みは生じると思うが)

そういった意味で、Xジェンダーの方々が望んでいることと、僕が望んでいることは実は同じで「純粋に1人の人として自分を視てほしい」「ただ『人と人』とでの話がしたい」という至極シンプルな望みではないだろうか。

自分の属性で奢ったり、自分の属性を卑下したりしたくない。

色眼鏡に支配されず、裸眼で相手を視ることさえできれば、本当は「多様性を認める」なんて考え方すら要らないのかもしれない。

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小島 雄一郎
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