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多様性のスペクトラム 〜イズムvsアンチを超えて

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと改めて意識している「多様性のスペクトラム」について書いてみたいと思います。


「イズム」と「アンチ」の対立

最近もまた色々なニュースがあって分断を感じることがあるのですが、実は僕は「イズム」と「アンチ」のどちらもあまり好きではありません。

ジェンダーバランスのことを発信していたりすると、男性陣から勝手に「フェミニスト」にくくられて石が飛んできたり、かと思えば「女性の味方だとおもってたのに!」と一方的にがっかりされ裏切り者みたいな攻撃を受ける、みたいなことが割とあります。

改めて言っておくと僕は「フェミニスト」ではありません。女性が可能性を制限されたり非対称性に苦しまない社会にしていきたいと思うけれど、「イズム」に抵抗があるのです。

「ism」になると「それだけが正義」という原理主義になってあまり好きではないのですよね…

同様に「アンチ」もまた、「あいつらがやることはすべて気に入らん!」という原理主義に陥りがちであまり好きではありません。

ジェンダーの話題で発信していると、女性の味方か男性の味方かどっちなのか?と聞かれることもありますが、どっちでもありませんし、どっちでもあります。


「アンチ」に陥るバイナリーの罠

「イズム」や「アンチ」は、A or Bどっちなの?という二択的(バイナリー)的な思考から生まれがちな気がします。

こちらの図のように、

AとBの2つの選択肢しかない場合、AでなければBであり、BでなければAです。そしてこの条件では「ちがう」意見が攻撃的なものになりがちです。

Aの立場を取る人にとって、Bは単に「Aではない(not-A)」というだけなのですが、2択の中でBを選ぶということが「Aに反対(aniti-A)」に思えてしまうからです。

こうして、選択肢の条件として2択しか見えていない場合、0か1かはっきりしなさい!という原理主義同士の対決になってしまいます。


アナログでは「not-A」は「アンチ」ではなくグラデーション

デジタルは0/1のバイナリーで情報を表しますが、世界は本来はアナログにつながっています。状態は2つしかないのではなく、間に無数に存在する。

アナログな捉え方においてはAとBとの関係は対立的ではなくグラデーションになります。

この条件では、Bであることは「Aに反対する」ものではなく、「Aよりも濃い」もの、Aと連続するものとして捉えられます。

そして、AもBも両極の値のブレンドになりますから、Aは白が75%で黒が25%、Bは白が25%で黒が75%、という感じで、両者は同じ成分をもつバリエーションにすぎません。どちらかしか含まない[白100%、黒0%]や[白0%、黒100%]は両端の極限部分にしか存在せず、ほとんどが双方の性質を持つことになります。

「左翼 vs 右翼」や「フェミ vs アンフェミ」は、バイナリーな捉え方では対立してしまいますが、実際には右翼寄りの人でも「左翼成分25%」だったり、フェミニストの中にも「アンフェミ成分10%」の人がいるのです。

バイナリーではなく、アナログな捉え方が出来ると「2択」でなくその間に多くのグラデーションがあることがわかってきます。かつ、それらは「対立」ではなく地続きのバリエーションなのです。

Aの立場の人に「いや、私はB」と主張したとしても、それはバイナリーのようにただちにAの否定を意味せず、度合いのちがいとして捉えられるようになります。


多様性のスペクトラム

グラデーションな捉え方は2択しかないバイナリーよりも多様性が増えていますが、それでも白黒2値しかないグレースケールです。

AとBは対立はしませんが、同じ軸で比較することが可能です。すると「白」シンパであるA側はBに対して「白さが足りない!」と自分たちの優位を主張するでしょうし、「黒」シンパであるB側は「色が弱いよ?」とAを見下すかもしれません。

しかし2値一軸のグレースケールではなく、↓のようなスペクトラムで捉えるとどうなるでしょうか?

Aはうすいオレンジ色(カラーコード#FAE34C)、Bはマリンブルーあたりの色(#2F67B7)です。両者はつながっていますし、今度はどちらが優位というような比較もあまり意味をなしません

もちろん、色もCMYKのような数値で示すことは出来ます。

AはC:2% M:6% Y:91% K:1%、BはC:83% M:54% Y:0% K:0%です。しかし2値一軸のグラデーションではなく軸が複数あるため、A側がBに対して「こっちのほうがYが多いよ」と主張しても、「CはBのほうが多いしKはほぼ変わらないね」という感じで対立や優位の構造自体があまり成り立ちません。

そしてもっというと、色は本来、方向を持ったものではなく、環を成しています。

先程の図では赤と紫が両極端にあったので、端と端が対立しているイメージがまだありましたが、色相環としてみると両者は反対どころかむしろ地続きであり、そもそも対立軸がありません

色のスペクトラムにおいても、特定の色の成分や色の波長で比較すること自体は可能です。しかし両者の関係はどんな切り口で比較するか、という軸のとり方によって可変であり、完全に相対的なものです。


「ちがい」を前提に自分を主張する

2択のバイナリー、アナログなグラデーション、そして色のスペクトラム。後者にいくほど色の多様性が増えています。そしてそれに応じて、Aに対してBが提示されたときの対立構造は弱まっています。

Aの立場の人にとってBはバイナリーでは「Aに反対」の立場でしたが、色のスペクトラムでは単にBという別の色ですから「Aもいいけど、Bの色もいいね」と認めることもできるでしょう。

このように「ちがい」の多様性が前提にあると、他者に対する受容性があがるのです。これがdiversityとinclusionがセットで語られる理由でしょう。

(ちなみに多様性やインクルージョンは、いうまでもありませんが犯罪や他者の権利侵害も受容せよ、ということではありません。あえて言うまでもないことな気がするのですが、以前政治のクオータ制について書いたら「そういうのが平等ならならおれが女子トイレに入りたいという自由も保証しなきゃだよね?」という詭弁が飛んできたことがあったので念の為。それ端的に犯罪だしそういう性加害的発想をする人がいるから広告の表現も気をつけなきゃいけなくなるんですよね)


年末年始に近藤弥生子さんの『台湾はおばちゃんで回ってる!?』という本を読んで、台湾の民主主義とそのベースにある多様性について改めて考えたのですが、

台湾には「おせっかい」がたくさんいるのだそうです。

街を歩いていても知らない人から「危ないよ!」と言われたり、同僚に「こっちを食べたほうがいいよ!」と食べ物を進められたり「いい人紹介してあげるよ!」と縁談を世話されたりそうです。

(東北出身の人見知りの僕としては若干苦手感もありますが笑)こうした「おせっかい」が「押し付け」ではないので台湾はかえって生きやすいらしいのだそうです。「これがいいと思うよ!」と主張やおすすめはしても、相手がその通り選ばず「いや、私はこっちにするね」と言うならそれ以上対立したり「論破」しようとしたりしない。

そして「押し付け」ではないきっぱり・さっぱりとした意見の主張ができるのは、台湾が多様性をベースにしている国だから、だと感じました。


台湾は統治国の変遷や政治的な背景によって、色々な言語・文化が広くない国土の中に共存しています。

「みんなちがうのが前提」で狭い国に共存している。そこではスペクトラムのように多様性が前提とされており、AとBは無数にある中のちがう色としてある。だから、「あなたはB?私はAがいいと思うよ」というけれどもそれをAに塗り替えようとしたりはしない。

台湾に比べると日本は圧倒的に単一民族単一文化で来ているので、not-Aを許せないところがあるのかもしれません。暗黙の前提として「おなじ」を志向し、異なる意見はバイナリー的にどちらかに分けようとして分断が生まれる。


多様性は同じではないが、バラバラでもない。

多様性が大事、という話をすると、みんながちがう考えになったらバラバラになってしまってまとまらないし混乱するだろう、という方もいます。


しかし多様性を持った上で大きな方向性に向けてまとまる、というのは可能だと僕は考えています。否、むしろ同じ大きな目標に向かうなら、多様性がある方がしなやかで強い。

たとえば台湾ではいろいろな考え方があっても「子供は大事にしよう」という大きな目標は共有されているように思えます。そしてそれは必ずしも、ベクトルや志向が同じであるということではありません立場(立っている場所)がちがえば目標地点へのベクトルはそれぞれに異なるからです。

むしろ立場がちがうからこそ、それぞれの立ち位置からこんな社会にするにはどうしたらいいだろう、という色々な意見を出すことができるのです。左翼も右翼もフェミもアンチフェミも、実は「犯罪や不正をなくそう」とか「安心して生活したい」という大きなおなじ目標を掲げることができれば、お互い否定せずにそれぞれの立場で社会をアップデートすることもできるはずです。


「和を以て尊しとなす」という言葉があります。そしてもう一つ、「和して同せず」という言葉もあります。

「和」というのは「同」ではありません。「和」は古くは笛が束ねられた楽器を表す文字であり「和音」はそこから来ていますが、和音は同じ音からは絶対にできません。むしろ「ちがい」こそが「和音」や「調和」の前提なのです。


僕は、ダイバーシティとは「ちがい」を増やすことだと考えています。そして今回見てきたように、多様性が増えることは実は対立を減らします。

そしてそれは一足飛びにはできません。単一民族単一文化で単色になりがちな日本だからこそ、バイナリーをグラデーションに、そしてさらにカラフルに、一歩ずつ多様性を増やして行く必要があるのです。

台湾では、トランスジェンダーのオードリー・タンさんが史上最年少で入閣しました。この台湾の成熟ぶりに比べたら、今の日本の価値観は、僕には白黒映画のように思えます。白黒映画では、明度が同じなら赤いリンゴも緑色のリンゴもグレーに見えますが、本当の世界はもっとカラフルで、白と黒のグラデーションだけでは表現しきれないもの。
映像表現がぐんと豊かになったように、社会もさまざまな色合いやグラデーションをそのまま見ることができるようになったら、より豊かになるはずです。
とはいえ、映画も白黒からいきなりフルカラーになったわけではありません。白黒に手作業で拙い色をつけていた時代があり、2色カラーの時代があり、やっとフルカラーになったのです。
今の日本はまだ、カラフルな世界への移行期。1色ずつ足していきながら、最後はフルカラーの、誰もが古いジェンダー観に縛られず、それぞれのカラー、それぞれが持つ「いびつさ」を維持したままで能力を発揮できる社会をつくっていけたらと思っています。

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