「我慢するのは間違い」という現代日本の空気—怪しからん②
身の回りには、自分の価値観にあわないから、それは、その人は怪(け)しからんという発信が溢れている。ネット、X(Twitter)での批判の99%は、怪しからんのレベル。建設的批判ではない個人攻撃・弱い者いじめが多い
言われっぱなし、叩かれっぱなしの構造が増えた。言ったもの勝ち、言われたもの負けのような空気になりつつある。日々の個人的な怪しからん発信の横行が、社会に過度な緊張を強いている
1 怪しからんの応酬
怪しからんの発火点が低くなった。怪しからんのレベルが低級となった。個人的な、自己都合の怪しからんが横行するようになった。自らの名前を名乗ることなく、目の前に相手がいたら絶対に言わないような怪しからんという批判的な事柄を発信する
それで傷つくかもしれないという人のこころの痛みを想像できない、理解できない人が増えた。またそれに便乗して、別の怪しからんを発信して、いいねを集めようという人が出てくる。当事者を無視して、そうだ・そうでないと怪しからんの応酬という対立構造がSNSのなかにうみだされて、一時的に盛り上がり、突然さっと消える
先月の韓国のDJセクハラ騒動にも、その対立構造を見る。まさに
怪しからんの応酬が繰り広げられた
お互いに怪しからんと議論をぶつけ合って、最後には「だから日本はダメなんだ、いつも韓国はそうだ」となる。日本人は韓国人は…、韓国人は日本人は…というように
だんだん主語が大きくなり
ボルテージがあがっていく
2 表現の自由で、怪しからんが増えた
怪しからんの応酬は、社会コストを増やし、社会的混乱を引き起こす
表現の自由だから、仕方ない
と「表現の自由」が前面に出てくる。ネット、SNSで、表現の自由で、自らが思うこと、考えることを自由に情報発信する場と武器が与えられた。これまでだったら、自分の身の回り、家や職場や近所で怪しからんと言っていた事柄が、日本はおろか世界にも広がることになった。しかし一見、正論っぽく言うが、よくよく聴くと
怪しからんのレベルが多い
その怪しからんは、あなたからすると、「それは許せない」と思っているだけだろうが、そんなに道理から外れたことなのか?逸脱したことなのか?それぐらいは我慢しなければいけないことじゃないか?ということが多い。ネット、 X(Twitter)での応酬レベルはまさにそれ
当時者でもないのに、彼は怪しからん・彼女は怪しからんと言う。誰々が何々したのは、怪しからん。〇〇なのに、こんなことをするのは怪しからん
怪しからんレベルでの応酬が増えて、「表現の自由」の範疇だいっても、そのことに関心のない人の心まで乱して、社会的な不経済を高め、社会を混乱させている
福島原発処理水の対応について、中国がバンバン言ってくるっていうが、今回が初めてではない、前にも、中国からの苦情の電話が鳴り止まないということがあった。しかし日本人も、そういう行動をとっている
なにかがあると、電話でテロをおこす
どこかの役所でなにか不祥事があった。その報道がなされると、唐突に発火して、そのテーマがX(Twitter)トレンドとなり、その役所の電話が鳴りっぱなしになったりする。その日本国内での動きと、今回の中国人の苦情電話と、なにがどう違う?
意見を表明するのは個人の自由である。しかし他人の仕事を邪魔する、妨害するような、意見表明の仕方はよくない。意見を表明するならば、手順を踏んで表明すればいいが、電話番号を鳴らして怪しからんとワーワーいうのは、いかがなものか?
ファミリーレストランで、料理が出てくるのが遅い、いつまで待たせるんだ、怪しからんと大きな声で怒鳴りちらして、店内の他のお客さまを不快にさせている人がいる。しかしあなたにそういう権限はない、お店の業務を妨害する権限はない
このように怪しからんが増えているが、なかなか終わらない。なぜか?
「表現の自由」の反対の概念がない
表現を受けつけないという自由がない。拒否する、聞かない、見ない、一種ブロック機能みたいなものがなければならないが、現在のところ、それがない
ある人に表現の自由があるならば、ある人にとって表現を受けつけない自由がなければならない。現在のところ、ない
3 「我慢するのは間違い」と考える時代の空気
そんな怪しからんレベルの発信がX(Twitter)トレンドとなったとしても、社会は変わらないことが多い
にもかかわらず、怪しからんレベルの情報発信が日々大量生産されている。いろいろな人から、いろいろな場所から、いろいろな角度から、怪しからんが発信される。問題がある。そんな怪しからんを真にうけて、煽られて、特定個人・組織を具体的に攻撃するような人が現れてくる可能性がある。それは犯罪。なぜそんな状況にになっているのかというと
それくらい日本人は暇になり
不満が社会に鬱積しているのではないか
つまり我慢できない人が増えている。戦後、団塊の世代以降で
「我慢する」というのは間違い
という考え方が広がっているのではないか。我慢しないといけないことは我慢しないといけなのに、「我慢することは間違ったこと」と考える人が増えた
昔、お金がなくて、学校に行きたくても行けなくて、学校を行くことを我慢して諦める子がいた。それは我慢ではなくて、条件不利。だからお金が貧しくても教育を受けられるように、国は社会・教育制度を整備した
それがこうなった。学校が面白くないから行きたくないーそうだったら我慢しなくていいよ、無理して行かなくていいよと子どもにいう親が現れた。それは身勝手であって、こういう人たちが増えた
我慢すべきなのに、我慢しない
我慢はしなくていいという考え方が浸透
天候が暑すぎる寒すぎるで、文句を言う。今年の夏は暑かった、もう秋になっているのに暑すぎる、我慢ならない、怪しからん。地球は温暖化しているからだ、化石燃料を売っている会社のせいだ、怪しからん。そんなふうに発想を飛躍させる人が増えてきた
エアコンが暑いと言う人と寒いと言う人がいる。暑すぎると言う人と寒すぎると言う人がいるが
決着しない
ちょっと寒すぎるんじゃないの?ちょっと暑すぎるんじゃないの?ちょっと温度を下げて、下げたら寒くなったから、温度を上げてという人が出てくる
現代社会は、こういう状態
4 我慢しないから、決着しない
そうだったら、法律でエアコンの温度設定を決めたらいい。たとえば温度設定を27度に決める。27度は暑いかもしれないが、法律で決まっているからこれくらい我慢しろと言える。ところが、団塊世代以降から、社会に対して
我慢しなくていいから
というようになった。26度・25度じゃないと暑くて我慢できないと言い出す人が現れ、25度にする。そうすると、25度では寒すぎると言い出す人が現れる。そういうことになって
いつまでも結着しない
男性は暑いからとエアコンをつけ、女性が寒いと言うので消す。すると男性が暑いと言い出しつけて、女性がまた消す
その繰り返し
その暑い寒い概念のような「許せる・許せない」という議論が日本社会で蔓延しているが、それはいつまでも収束しない。そうならば法律を決めたらいいとなるが、そうそう法律にはならない。政府としてはみんな譲り合ってという
譲りあおうということは、お互いに我慢しようということであるが、団塊世代以降の世代が、自分の価値観で判断したらいい、我慢しなくていいからという価値観を広げた。だから
お互いに我慢しあう前に
怪しからんとなる
こんなに暑いのは怪しからん、こんなに寒いのは怪しからんとなって、お互いに文句を言いあう。だからいつまでも決着しない
怪しからんを巡る旅はまだある、次回に続く