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大阪・関西万博2025をどう考える

まず質問。「平安神宮は、いつ建立されたでしょうか?」—明治28(1895)年に、建都1100年記念事業の一環として第4回内国勧業博覧会が京都で開催された。第1回から第3回は東京で開催されたが、東京奠都による低迷に悩む京都が内国博覧会を望み、京都で行われた。第4回内国勧業博覧会を観に、全国から約114万人が京都に来られた。平安神宮はその博覧会のメイン会場として建てられた。この博覧会に向けて考えられた都市ビジョンが「観光都市」京都を形づくり、127年後、京都を世界有数の観光都市に育てあげた

                  沖縄美ら海水族館

現代の沖縄は、世界的観光都市となった。しかし沖縄は昔からそうではなかった。本土復帰の2年後の昭和50(1975)年に、沖縄国際海洋博覧会が開催された。「海洋」をテーマとした特別博は、その後の「海洋観光都市」沖縄を創り上げた。海洋博跡地に建設された美ら海水族館は沖縄観光の中核となり、国内外の観光客・移住者も含めて沖縄の人口を増やしつづけている


1 イベントは何のために開催する?

2025年4月13日の大阪・関西万博開催まで、あと619日となった。コロナ禍はおさまったが、ウクライナ紛争の行方が読めない時代に、万博は必要なのか?工期が厳しく、開幕まで間にあわないのと違うか?建設費が高騰して、当初予算を大きく上回っているが、それだけの金を出す価値は万博にあるのか?こんなものをやってどうする、税金の無駄遣いとちがうか?といった声が一気に噴き出ている

コロナ禍中に開催された東京オリンピックも
開催するのか?中止するのか?揉めたが
開催され、みんな、感動した

そんな感動的だった東京オリンピックも、二年経ち、忘れはじめている。そんなものである。あえて言えば、なにが問題だったかというと

開催前に、過度に期待をかけること

開催前に言っていたことと現実が異なることが問題。万博を開催したら、社会はこう変わる、産業はこうなるという期待像は恐らく外れる。そうではなく、会場に行って感動する、それでいい。イベントとは、そんなもの

イベントは理屈ではない。オリンピックや万博は「レガシー」を残すためのものといわれたりするが、レガシーを目的に開催するのではない。結果である。1970年大阪万博は岡本太郎の「太陽の塔」がレガシーではないかという人もいるが、閉幕後に取り潰される予定だったが、社会が「太陽の塔」を求め、50年後も万博跡地で当時の熱量を発しつづけている

2 社会がイベントを必要とする

                堺屋太一研究室(大阪)

1970年大阪万博で、社会が変わったことがあるか?なにも変わっていない。経済的には大阪・関西の日本に占める位置づけは1970年をピークに下がっている。EXPO'70が大阪・関西経済ピークだった

万博をノスタルジックに語る人がいるが
時代をシンボルにするイベントに過ぎない

あのイベントで何か変わったとすれば、万博会場に行き触発された人たちのその後の行動が変わった可能性があるということ。もしかしたらアメリカ館のアポロ12号が持ち帰った月の石、ソ連館のソユーズ・ロケットや人工衛星の実物を観て、宇宙飛行士になった人がいるかもしれない。人間洗濯機を観て三洋電機に入社した人がいるかもしれない。ジョアン・ミロの大壁画「無垢の笑い」のガスパピリオンに感動した私は、12年後に大阪ガスに入社した

太平洋戦争敗戦の3年後の1948(昭和23)年9月から11月の3ヶ月、大阪市天王寺で「復興大博覧会」が開催され、160万人が来場された。この博覧会がどれだけ大阪・関西の人々の心に灯を点しただろうか?1970年大阪万博プロジュースの中核となった堺屋太一さんや小松左京さんが、幼少期に、この博覧会を観られ、影響を受け、EXPO'70につながった

復興大博覧会場が開催された会場が、象徴的だった。復興大博覧会の会期を終えると、博覧会場跡地は「夕陽丘 母子の街」となった。1000年以上もつづいている「日想観」の拠点である四天王寺で、戦後復興に向け博覧会を開催した先人の見識が高い

万博は殖産興業やまちづくり、未来社会づくりにつなげることを目的としてきたが、万博が社会を変えてきたのではなく

社会が、70年大阪万博というイベントを
必要としていたといえる

時代が万博を求めていたのだ。では2年前に開催された

東京オリンピックはどうか?

東京オリンピックが社会を変えたのではない。社会が東京オリンピックに熱狂した。社会がそういうイベントを必要としていた

東京オリンピックも、ラグビーの日本代表の活躍も、今では、そんなことがあったねくらいの記憶となり、具体の戦いの内容は殆ど忘れている。しかしオリンピックに熱狂した

大谷翔平の大リーグでの活躍への感動は現在進行形で、日々、更新している。しかしあれだけ大活躍した松井秀喜やイチローのことは、忘れかけている。イチローと松井の活躍も、社会を変えたというよりは、社会がそういう感動を求めていたのだ

3 現代社会が求める万博とは―楽しい、面白い万博

万博に、社会的正義とか使命とか元気とかを期待するのは、無理がある。現在の大阪・関西万博への論調は、万博を現在に開催する意味があるのか?なんのための万博なのか?しかし万博以外になにかあるのか?—これをしたらいいというプランがなく、ただ反対するだけの人が多い

大阪・関西万博はやったらいい

ただ、あまりに期待を寄せすぎると、簡単に空振りしてしまう

 現代社会が求める万博をすればいい

昨年の東京オリンピックだって、そう。オリンピックの社会的な位置づけがどうだとか、社会的価値はどうだとかではなく、もっと単純なもの。コロナ禍で1年間延期されたが、日本国民は1年延期された東京オリンピックに熱狂した。その時、日本の熱量が上がった。これが大事。

では大阪・関西万博会場に行って、勉強になったとか、仕事に役立ったとか、社会的なことに参画できたとかといった高尚なものではなく、万博に来た人が面白いモノ・コト・トキを体験できればいい

楽しく、面白い博覧会

だから1970年の大阪万博は、そういう意味で正解だった。1970年の社会がそういうことを必要としていて、社会は万博に熱狂した。たとえは良くないが、第1次世界大戦後のドイツの社会がヒトラーを生み出したのと同じように、社会が1970年の大阪万博を生み出した

55年後の2025年大阪・関西万博も同じ。ある意味、社会が2025年大阪・関西万博を必要としている。みんながそれを楽しめる「面白い」ものにする

「面白い」とはなにか?面白いの語源とは、「面」は目の前、「白い」は明るくはっきりすること、目の前が明るくなった状態。漫才や落語などの「おもしろい」「おもろい」ではない

みんなが熱狂する

みんなが面白く、楽しめる未来社会のコンテンツが、健康や福祉にあるとは思えない。世界を惹きつける日本のコンテンツは、10年以上も前からの日本社会、コロナ禍4年目の街の風景を見えば分かる。

アニメとアミューズメントとエンターテインメント
そして、食に尽きる

今、日本が世界にアッピールできる戦略的コンテンツを総動員する。「いのち輝く未来社会のデザイン」では、日本国民のみならず世界の人は熱狂できない、惹きつけられない

4 今、日本ができる最大の戦略的コンテンツを総動員する

話を大阪・関西万博に戻す。現代社会が万博のようなイベントを必要としているとすれば、国民および世界の人の熱狂を呼ぶなにかを読み違えてはいけない

ただ万博にはドラマがない。オリンピックのような、熱狂するような人間ドラマがない。みんながよーいドンと走っていくような臨場感、緊張感がない

では、万博に、なにがあるのか?

社会が求める万博とは?では、現代社会は、どういう社会か?コロナ禍4年目となり、3年間止まっていた世界の時計・人々が動きだした。日本においても、インバウンドが戻ってきた。コロナ禍前を上回りつつある

しかしコロナ禍中に、観光関係者を減らしてしまっていた。だから国内外の観光客が観光地に戻ってきたが、お客さまへのもてなしが十分できていない。オーバーツーリズム状態も増えている。こうなることを日本は願っていたが、ありたい姿への想像力が不足していて準備不足だったのが、現在の現場の混乱の原因である。コロナ禍前の価値観ではなく、コロナ禍での価値観の構造変化を踏まえて、観光サービスを再構築しないといけない

おそらく2025年の日本には、さらに世界から、とりわけ中国や東南アジアからお客さまが来られるだろう。その2年後の社会の姿は、十分に予想できる。そのとき、2025年の日本社会はどうなっているのか?日本人は、海外から日本に来られる外国人の姿・行動を目にした

日本人の取り残された感は
すごいことになっているのではないか

本当は、多くの人は気がついている、世界のなかでの日本の立ち位置、とりわけアジアのなかでの立ち位置の変化が。2年後は、さらにアジアの進歩に取り残され感が強まっている

国の浮き沈みもある。長い時代を考えたら、良い時も悪い時もある。それに一喜一憂して、時代の潮流を読み違えてはいけない

失われた30年が続くなか、コロナ禍に突入して、昨年からのウクライナ紛争の終息が見えないなか、混沌とした時代の空気感が漂うなか、日本社会は、今、なにを求めているのか?

東京オリンピックも始まる前も、SNS等で日本人はさんざんコケ下ろした。東京オリンピックは中止したほうがいいのと違うのか?なぜコロナ禍のなかで開催するのか?という雰囲気だったが、オリンピックを開催したら、盛り上がって、国民は熱狂した。そのように

日本社会がオリンピックを求めていた

万博があるのだから、何かをしなければいけないと考えるのではなくて、社会が求めている万博を活かそうという考え方に切り替える

万博は盛り上がっていない、開催する意味があるのか?という雰囲気が流れているのだが、逆説的に、今こそ

やってみなはれ
やるなら、面白いものにする
やるなら、我々が面白がれるものにする

万博と地域社会・企業活動を分離させて考えるのではなくて、万博を契機に、それぞれの地域・エリアが連動して、万博「会場」の位置づけを拡充して、関西のみならず全国でお客さまを多様的に徹底的にもてなす
 
世界から万博だけを観るために来られるのではない。万博「会場」には1日か2日行くだろうが、日本滞在の日々に「日本」を体験する。万博はその体験のひとつ。世界に惹きつける日本コンテンツは、全国にある。万博会場はその配電盤になったらいい

関西をはじめとする地域にある、近現代・未来ゾーン、歴史・文化ゾーン、ゲーム・エンタメゾーン、自然環境ゾーン、そして食・ガストロミーゾーンという一大「日本文化」の揺籃・中心・配電の地域・ゾーンと大阪・関西万博会場とシンクロさせて、同時多様的に、日本を楽しんでもらう

今、日本が世界に誇るモノ・コト・トキを総動員して、世界を魅了する。日本ってすげえ!なんて素晴らしい!という感動を世界の人に発信するように、万博と日本社会を再定義・再編集するという選択もあるのではないだろうか?


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