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堺屋太一事務所で考えていること―新教養力考①

知の巨人と対話している。その知は縦横無尽である。膨大な社会、経済、政治、歴史、エネルギー、ビジネス、観光、万博、イベントなどの書籍、評論、論考、インタビューの原稿、校正、関連資料を通して、知の巨人であった堺屋太一氏と対談して、現在とこれからを考えている

1.堺屋太一事務所で、知と格闘している

1970年大阪万博の企画・実施に通商産業省官僚としてかかわり、「油断」「団塊の世代」「知価革命」「秀吉」「チンギス・ハン」などの小説家であり、経済評論家であり、未来予測者であり、行動する戦略家であり、稀代の講演者であり、リアリティあふれる大学教授であり、元経済企画庁長官だった堺屋太一氏が遺された膨大な原稿と映像と音声と資料等の整理を大阪天神橋の堺屋太一事務所で行なっている

戦国時代から安土桃山時代、江戸時代から現代までの時間軸を何度も何度も往復して、万博史を通して日本社会と都市・郊外・地方の変遷と課題を読み取り、団塊の世代を軸とした戦後社会・産業・経済の変遷をたどりつつ、2019年に亡くなられた堺屋太一氏が見なかったコロナ禍の現在、コロナ禍後社会を考えている

膨大な堺屋太一氏の労作を整理しながら


知とはなんだろうか
教養とはなんだろうか

を考えている。堺屋太一氏は国の会議や自治体の会議、講演・講義に、取材、テレビ出演をこなしつつ、膨大かつ多様な原稿を執筆された。氏の残された作品群を前に、1人の人間が、三面六臂に、これほどのアウトプットができるのだろうかと圧倒される

堺屋太一事務所に長年勤められた事務の方に、堺屋太一さんはどこで原稿を書かれたのかと訊ねると

「先生は、いつでも、どこででも、なにかを書かれていました。いろいろな方とお話されることがスキで、面会と面会の時間に、いろんな場所でちょこちょこと原稿を書かれていました。驚くのは、事務の私たちと交わした雑談を面白がって、翌日のテレビやインタビューのなかで、先生の言葉で語られることが何度もありました。なんにでも関心のあられる方でした

堺屋太一氏という知の巨人の秘密のひとつに触れた気がした

2.教養人と普通の人のどこが違う?

教養のある人は、自らが関心のあるテーマの情報を集めて教養を深めていこうとするだけではなく、自分の教養をさらに咀嚼したり、幅を広げたり、見方を変えるきっかけとなる、異なる新たなトピックスを求めるようとする

そのトピックスは、本を読んだり、誰かと話をするだけでない。風景を観るだけでもいい

たとえば京都の嵐山の紅葉を見る。普通の人は、さすが嵐山! 美しいね 綺麗だねと感動して、嵐山の風景をスマホで写真を撮って、では次の観光地に行こうかとなる

教養人は違う。嵐山の風景を観ると、百人一首や古今和歌集の一首が浮かんでくる。1000年以上前の平安人が愛(め)でただろう嵐山の風景を浮かべる。たとえば

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

(藤原忠平 『拾遺集』雑集)

教養がある人は、そこで観ている風景から膨らませたイメージを想像して、なにかを感じ、考えて、味わう。今、わたしが見ているこの風景を平安時代の人たちも感激しただろうイメージに、思いを寄せる。教養のない人は、そのイメージが見えない

このように、同じものを見ても、教養のある人と教養がない人とでは、受け取る風景・イメージは違う

普通の人は、物事を必要か不必要かで判断をする、だから不必要と見なしたモノ・コトは自分に入ってこない。教養ある人は、見るモノ・コトに引っ掛かるところと、引っ掛からないところがでてくる。これが大きな差である。

たとえば食卓に「酢橘(すだち)」が置いてあったとする。この酢橘をどう見る?普通の人は、酢橘をしぼって料理にかける。
教養のある人は、ちがった見方をする。すだちって、どんな漢字(酢橘)だったのだろうか? どうしてこの料理に酢橘をかけるのだろうか?食品加工業の人ならば、酢橘の酸味は化学式でどうなるのだろうか?農業関係者ならば、この酢橘は国産品だろうか輸入品だろうかと考える。このように、同じ酢橘でも、いろいろな見方をする

同じものを見ても、教養のある人は、様々な情報を受け入れて、自らの教養の「知的基盤」と照らしあわし、考えて、新たなものを生み出す。
考えるということは、その人にとって面白く、創造的で、意味のある作業である。なおかつ、へぇ~そうか!なるほど…と新しいモノ・コト・アイデアのヒント・糸口を発見する。教養のない人は、酢橘をしぼって終わり

漫才もそう。漫才は人々を笑顔になってもらい、幸せな気持ちにする芸能である。一級の漫才師は、漫才という芸能の教養が高いといえる。漫才師は、人々に笑ってもらうため、普段からどうしたら面白いことがいえるのかを考えている。日常生活のなか、いろいろな人と対話して、様々なコト・モノ・サービス・シーンを観察して、なにを言ったらお客さまにうけるのかというネタを探し、考え、無数の台本を書き、稽古しつづけている。漫才師はこのような、きわめて高度な知的編集作業を行っていて、教養の持ち主といえる

よって、教養とは、古典を読んだり、芸能を嗜んだり、芸術を観たり、茶道や華道や書道を親しむだけではない。日常生活のなかで、多様な人々との対話を通じて、様々な場への好奇心をもった観察から、教養が身につくものでもある

50年前の社会学者のマーク・グラノヴェッターの有名な「弱い紐帯の強さ」という考え方がある

「つながりが緊密な人よりも、弱いつながりでつながっている人の方が、有益で新規性の高い情報をもたらしてくれる可能性が高い」

ビジネスもそう。日常いつも一緒にいるメンバーよりも、社内でも社外でも3か月ぶり、半年ぶり、1年ぶりに会った人との対話から、着想を得たり、アイデアが生まれることが往々にある。同じ世界の中だけでなく、自分のいる世界とは違う人々や事柄を見たり聴いたりすることから、学ぶことが多い。この異なる、新たなソトとのつながりが薄れていることが、現代日本の教養力を落としている要因のひとつではないだろうか

これからの激変する社会を生き抜くための教養力とはなにかを、来年、次回でも考えていきたい


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