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50年で20歳人口が半減した日本

これまで少子高齢化という言葉を私たちはどれだけ使ってきたのだろうか。社会・産業・経済・ビジネス・生活の現代課題・今後のあり方を考えるとき、必ず登場するキラーワードが「少子高齢化」

それが何なのか、どういう意味なのか、どのような影響があるのかなど、突き詰めて考え、理解することなく、少子高齢化という言葉を出して、場を収める。みんな、そうだそうだと言って、場は思考停止する。「少子高齢化」の意味は年々変わっていくのに、前提を変えないので、適合不全が広がる。だから論点が大きくズレていく

1. 新型「運用バブル」の崩壊

堺屋太一氏メモ

コロナ禍に入って、船場の経営者が二人、堺屋太一さんが喫茶店で書いたグラフを持参されて、こう呟かれた。
「堺屋さんが生きてはったら、これからの社会を、どないいいはるんやろか?」

コロナ禍前に書かれた堺屋グラフに、なにが書いてあったのか?1990年が日本経済史上の頂点。そのあとは人口減だから駄目。2010年がボトム。次のピークの2050年に向けて、ゆるやかな昇り曲線。2020年に「食糧危機?」 と書かれていたー現実は「新型コロナウイルス」だった

1990年が日本経済史上の頂点だった。1989年12月29日に日経平均史上最高値38,957円 をたたき出した。空前の高騰した地価が1991年3月から大きく低下していく。そして1995年1月17日に、阪神淡路大震災が発災した。

リーマンショックに伴い、2008年10月28日、日経平均史上最安値6,994円へと大きく沈む。依然回復していなかった日本に、2011年3月11日、東日本大震災が襲う。そして2020年からのコロナ渦が、2022年のウクライナ紛争が起こり、複合化した世界不況が広がっている。

この半年で、1ドル115円が137円を超えた。円安が急加速している。しかし日本の金融政策は変わらず、バブル崩壊の可能性があるとも言われるが、なんの「バブル」なのか?なにが崩壊しようとしているのか?

世界の金は不動産だけではなく、運用率・利率に向かっている。利回りがよければ、土地投資もするし、株式もする。ビットコインも、メタバースもする。

ビジネスは、運用でなく収益が大切、投資でなく収益が基本である。しかし日本は30年前のバブルの崩壊の失敗を総括せず、バブルの崩壊後も「運用と投資」に走った。これから訪れようかもしれないバブルの崩壊は、まさにこの「運用バブル」。30年前のバブル崩壊の構図とは違う。

日本は収益をあげる仕組みを見直しつづけ実行しなくなり、金が稼げなくなった。かつての収益を期待して、今までと同じことを繰り返して、儲けることができなくなった。市場も、顧客も、パーパスも再定義して、事業を再構築しないといけなかったのに、なにも変えなかった。前提をなにも変えなかった。失われた日本の30年の本質は、ここにもある。

2.50年で20歳人口が半減した日本

日本は「人口減少」とか「少子高齢」と言い出して、何十年が経ったのだろうか?それで、なにかを変え、なにかをしようとしてきたのか?

戦後の日本社会は、圧倒的人口の「団塊世代」がライフステージを踏むごとに、社会・産業を変えた。現在73歳から76歳となっている「団塊の世代」が20歳だった高度経済成長時代と比べて、令和時代の20歳は5割となった。

団塊の世代人口の半分で、日本社会をまわそうとしている。逆に、こうとも言える。団塊の世代10人でやってきたことを令和世代5人でおこなっている。ビジネス効率を倍にしようとした。それをめざして

効率を高めよう
生産性を向上させよう

を時代目標に据えて、なんでもかんでも効率性、生産性と言っている。それは大切なことであり、それに注力して生産性は伸ばしてきた。しかし課題がある。

生産性はのびたが
創造性はおちた

創造性の語義は、ゼロベースで考え、つくりなおすこと。

1970年の20歳人口の半分の2022年20歳人口で、日本社会・経済をこれまでと同じようにまわすことは難しい。創造性を軽んじて、生産性向上だけでは、日本は成長するわけがない。

創造性の語義は、ゼロベースで考えて、つくりなおすこと。お客さまがこうありたいことを想像して、それを創造することができなくなった。

3. 人口が減れば、社会・経済は縮小する必然

それは不都合な真実であり、見たくない未来であった。
少子・高齢化というが、少子が社会にどういうインパクトを与えるかということを日本は直視してこなかった。50年前の20歳人口が半減したら、市場の絶対数量は縮小する。現在だけでなく、30年後も、50年後も、60年後も。それは必然。

今まで10軒建っていた家が4軒になる
今まで10軒に電気供給した家が4軒になる
今まで10本走っていた電車が4本になる

本当の需要はそうなっていたはず。しかし日本はそう考えなかった、考えようとしなった。戦略を変えず、生産・供給量はこれまでどおりした。こうして日本社会・経済に

需要と供給のアンマッチが広がった

自治体も、交通も、エネルギーも、商店・美容・理容・クリニックなども同じ。需要よりも供給が過剰となった。膨張しきった社会を、だれがいつどこでどのように撤収するかが縮退社会を考える論点であるが、日本は少子高齢社会の課題解決として、IOT・DX・ロボテックなど新たな技術を社会に実装して

コンパクトシティ・スーパーシティ・
田園都市

といった高効率的なまちづくりをつくろうとしている。それはひとつの柱として間違いではない。それは手段として重要である

日本の都だった場所であろうと、その役割がなくなれば荒地となり、砂に埋もれる

飛鳥京、平城京、難波京、近江大津京、長岡京、鎌倉幕府、室町幕府、安土城

日本中心だった都市も、役割がなくなれば、それがどこにあったのすら分からなくなることがある

拡大しきった都市・郊外・地方のインフラを維持する社会資本・民間投資は集めることは難しい。白線が薄くなった道は薄いまま、汚れた川は汚れたまま、住む人がいなくなった家はそのままになる。そうならないとは言いきれない

4.では、どうしたらいいのだろうか?

この質問こそがナンセンス。どうにかする必要があるのだろうか?
どうにかしないといけないと考えること自体がナンセンスである。

末期がんの患者が、どうしたら完治できるのか、なんとしても延命したいと考え、医学的に治療する人もいるが

残された余生を
佳く生きることができるのか

を考え、ホスピス、Well-Beingを求める人もいる。

そういう発想を社会・経済においても持つ

これから、存続できない「限界集落」ならぬ「限界都市」が出てくるのは必然。しかし多くの人は、そう考えない。都市にも限界がある。これからよりよくなっていくことが限りなくゼロの都市がある。都市であることを存続することが困難な都市がこれから増えていく可能性が高い。

それをなんとかしよう、どうしたらいいのかを考えることは、前提を変えていない証左である。

前提を疑う・発想を変える

これからの社会をどう発想していけばいいのかは、来週水曜日に考える



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