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「人々が集う体験」をいかにしてデザインするべきか

ぼくはさまざまなワークショップのファシリテーション(司会進行役のようなもの)を生業にしています。人を集めて対話したり創作したりするオンサイトのワークショップの場はまさに「三密」で、2020年3月以降、パタリと実施できなくなってしまいました。

ぼくたちのようなファシリテーターは今、「人々が集う体験」をどのようにデザインするか?という問いを突きつけられています。

その応答として、3月にいくつか「オンラインワークショップ」のナレッジを記事として書かせていただきました。ZOOM等で接続・同期し、オンラインホワイトボードを用いて対話を進めていくような方法です。

1つめの記事ではそもそもオンラインでのワークショップとはどのようなものなのかを書き、2つめの記事では同期・非同期・個人・全員のレイヤーに分けた「デザインモデル」について記述してみました。

多くの方に読んでいただき、仕事のやりとりの中でも「臼井さんの記事読みましたよ」とご連絡いただくことも少なくありません。

しかし、同時にぼくの心には一つの疑念がふくらみはじめています。

「ZOOM、MURAL、miro、remoといったサービスを使ってオンラインで接続・同期すればワークショップはできる」と開き直っていてよいのでしょうか。

ぼくのように人を集めて創造的な活動・対話を促すファシリテーターは、インターネットに依存せず、かつ接触せずに対話する意味と方法を検討しなければならないのではないか。

あるいは、コロナウィルスが収束したのちも接触への恐れが尾を引いて「集い方」が変わってしまったときの集団創作・対話の意味と方法を考えなくてはならないのではないか。

これらの疑念は、日経新聞で哲学者の東浩紀さんのインタビューを読んでから、すっと湧いてきて、ずっと心に引っかかっています。

東さんは記事の中でこのように語られています。

「決まった作業や講義であれば、オンラインで替わりは利くだろう。だが、新しいビジネスに挑戦するといった創造的な仕事がテレワークだけで成立するだろうか。ネット空間は自分に似た考え方の者ばかりが集まり、創造的な行為に欠かせない異質な存在や意見を排除しがちだ。」

事実、オンラインワークショップでは参加者のインターネット環境やマシンのスペックによって操作が遅くなったり、発話が途切れ途切れになるという事態も起きています。

これによって、上手く操作できないことが焦りにつながり、ワークショップに没入できず「なんだか排除されたような気分になる」という感想も聞こえてきます。

また、企業によってはZOOMやMURALなどに企業内の情報が書き込まれることを懸念し、使用を禁止しているところもあります。Teams(Microsoftが提供するオンラインコラボレーションツール)のみしか使用できず、ぼくたちのような外部のファシリテーターが参加できる条件が整わないケースもあります。

また、ワークショップは、ビジネスパーソンやインターネットやコンピューターのリテラシーが高い人だけを対象としているわけではありません。

住民と行政の合意形成の場や、公共的な教育実践の場でも用いられています。それらは本来多様な意見が取り入れられ、多様な人々が参加可能であるべき場です。インターネット回線を自宅に引いていなくても、macbookやiPadを持っていなくても参加できるようにするべきです。

しかし、それらも「オンライン・ワークショップ」という形で代替された場合、アクセスが制限され、結果として多くの人が参加できなくなってしまいます。

たとえばeメール、もしくはFaxや手紙、電話やラジオのような比較的古いメディアの価値も見直しを図るべきかもしれません。そのような古くて遅いとされるようなメディアを用いてなお、いや、用いるからこそ面白い対話の経験を作り出すことはできるでしょうか。

また、このインタビュー記事で東さんが「通信の自由がいくら進んでも、集会の自由の替わりにならない」と指摘するように、コロナ後に接触を恐れ、他者と距離を取るようになるだろうぼくたちにとっての「集い」は新しい仕様を伴うはずです。そうしたときに改めて集うことの意味を深く見つめながら、集うための場をデザインすることはどのように可能でしょうか。

こうした問いの先で、人の体験をも対象にしてきたデザインの真価が問われているようになりません。


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