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「まだらなデジタル化」では、コストも減らないし、働きがいも生まない

日本のお客様と仕事をしている中で、よく気になることがある。それが、タイトルにした少々複雑な課題の相互関係。

個別の事情を書くことは出来ないのだが、現在の帰国に伴う「水際措置」にもこの問題が端的に現れているように思うので、それを例にして考えてみたい。

現在、日本への日本人の帰国に関しては厳格かつ複雑な手続きが必要とされている。

その詳細は、所管する厚生労働省がサイトで公開しているのだが、単にサイトに文書が公開されているだけで、どれが最新情報なのか極めて分かりにくく、しかも文字の文書がPDFどころか画像化されていてページ内検索ができないなど(リンク先はその一例)、これをweb化やデジタル化と呼ぶことは、その本来の目的・意義からすれば残念ながら適当なものとは言えないだろう。

また、帰国に必要な書類も一部のみ「質問票web」からオンライン回答を求められるが、陰性証明書はもちろん、誓約書や「健康カード」と称する書類は紙で配布されて手書きを求められ、しかも同じ内容を重複して書かなければならない部分もある。さらに、水際措置の更新内容によっては、機内で配布される書式が古く、到着後に最新の書式に書き直しを余儀なくされることも経験した。

さらに、帰国者が自己隔離期間中に健康状態の報告や所在地の確認で利用することを求められるMySOSというアプリも、表面的にはデジタル化されているようでいて、内実は人海戦術の対応をしているのではないかと推測される。先日の帰国後に自己隔離期間が14日から10日に短縮され、すでに帰国した人も対象となったのだが、センターに電話した人はアプリ上の期間表示が短縮されたものの、そうでなければ古い期間のままで、10日後も現在地確認の通知が来ていた。

こうした状況に対応できないものを「システム」と呼べるのだろうか

もし、帰国者の入国日をデータベースで管理しているなら、一斉に変更することは簡単なはずではないか。そのほかにも、一斉にきておかしくない通知が、人によりバラバラな時刻で来ていることからも、手動・人力での対応をしているのではないかと思わされる現象が見受けられた。今回は、CES参加者が一斉に帰国し、SNSでの情報交換・共有が行われたために、こうした手動対応の疑いが明るみに出た。

上の記事が指摘するような、規制が厳しく鎖国状態であることが問題なだけでなく、こうした帰国手続きの「まだらなデジタル化」が、帰国者側にも帰国者を管理する側にも非効率になっていて、2度手間3度手間を強いていることが問題なのだ。

公開しても当たりさわりがない例として上記の水際措置のケースをあげたが、実はこうした「まだらなデジタル化」で、自動化による省力化・スピードアップに繋がっていないばかりか、人間がデジタルに挟まれて働く状態になっている。これでは、人件費とシステム投資の二重のコストがかかってしまうし、ミスも起きれば残業も発生する。なにより、そこで働く人のやりがい・働きがいが果たして生まれているのだろうか、と疑問に思うケースは、私が実際に見聞きしている範囲でも少なからず未だに残っているように感じる。その状況は、まるでチャップリンのモダンタイムスをみているような気分にさせられる。厳密には少し状況は違うのだが、技術に振り回されて幸せになれていない人間の姿という点で共通するものを感じてしまう。

なぜこうした状況が生まれるのか、考えてみると、ひとつにはマンパワーで行ってきた従来の業務(プロセス)を変えることなく、デジタル化しやすいところだけを切り出して置き換えている、というところに大きな問題があるように思われる。

デジタル化によって業務プロセス自体を根本的に刷新し、全く新たなものとすることで劇的な品質の向上や省力化・自動化によるスピードアップが図られなければ、デジタル投資の意義は薄い。そうした抜本的な刷新が、昨今もてはやされるDXのひとつの姿なのだろうと思う。

一方、日本企業では、かねてSAPなどの提供する標準的な業務ソフトの導入が進まないと耳にしたことがある。その理由は、各社が従来やってきた業務プロセスをそのままなぞる仕組みにカスタマイズすることを求めるため、結果的に独自仕様の開発をすることになり、導入に必要な時間とコストが膨れあがっている、という。

ただ、もし、あるべき形でデジタル化・DX化が進めば、そこでは消滅する仕事が発生し、雇用が失われる(日本の労働法制下では、正規雇用の雇用は簡単には失われないが)ことにつながる。この点を懸念するSNS投稿が、先日アメリカのDXについて書いた私のCOMEMOに対して寄せられたのだが、忘れたくないのは、日本は働き手が減少する社会である、ということだ。雇用が失われる不安はもっともであり、理解できるのだが、社会全体としてみれば、デジタル化で自動化できる仕事を人間がやっている余裕はないのが日本の現実だ。もしそれがそのままなら、日本はさらに世界の中で立ち遅れていき、貧しい国になることが加速することが私は心配だ。

個別の歴史を振り返るまでもなく、私たちは技術の導入によって仕事がなくなると同時に別の仕事が生まれるという繰り返しであることを思い起こしたい。

日経新聞の記事を「自動化」のキーワードで検索すると、まだまだ工場の自動化など第2次産業の生産設備に関する記事が目立ち、事務職などホワイトカラーの仕事の自動化に関する記事が少ないと感じる。下記はそうした記事の一例だ。

これは、別な言い方をすれば日本がまだ第3次産業のDXに取り掛かれていないことの現れとも見ることが出来る。

モダンタイムスの現代版のように、システムとシステムの間に挟まれて人間が対応するような仕事に、果たしてやりがいは感じられるのだろうか。もちろん、感じ方は人それぞれであるから、それにやりがいを感じている人もいるだろうしそれを否定するつもりはない。ただ、一般的には単純作業はやりがいを感じにくい仕事とされる。日本で、本来の価値を生む形でのデジタル化が進んでいないことが、働きがいを感じる人が突出して低い一因となっている可能性はないだろうか

働きがいのある仕事よりも安定している(と思える)仕事をすることの方が重要であったのがこれまでかもしれないが、こうした状況が少しずつ変わり始めていることは下記の記事が示している。

働きがいと DX は、一見無関係のように思えるかもしれない。しかし、実は日本の人々の働きがいの低さは、「まだらなデジタル化」が目立ち、なかなかDX本来の意義が発揮される状況にならないこととリンクしているように思う。

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